名前の通り、シェイクスピアの最晩年の傑作『テンペスト』の翻案。新作としてはよくできていた、というのが、正直な感想。とくに、呂勢大夫の語った「第四 森の中」と「第五 元の窟の中」は、詞章といい、節といい、立派な浄瑠璃だったと思う。この作者・作曲者コンビの力量はすごいと感じた。「美登里のくどき(女性登場人物の長い独白)」や「左衛門物語り(男性登場人物の長い独白)」があって、劇的な緊張感が高まる。
しかし、それに比べると、「第六 元の森の中」と「第七 元の窟の中」は、平板との感を免れない。その結果、最後の「ゆるし」(作曲者、鶴澤清治による、この芝居の勘所)も、カタルシスには至らない。
また、「自由」とか「解放」というような言葉が文語体、七五調の中に出て来ると、どうしても違和感を抱く。これを他の表現で置き換えることはできないだろうか。
最後に左衛門が観客に語りかけるのは、シェイクスピア劇を踏まえたものだが、せっかく萬歳と祝言が付けられているので、浄瑠璃としてはどうもちぐはぐなように感じた。
浄瑠璃として弱い部分があるように感じたのだが、どうしてだか、その理由を考えてみた。
- 人が死なない。シェイクスピア喜劇を元にしているのだから当然だといえば当然なのだが(シェイクスピア当時の作劇作法によれば、人が死ねば、喜劇にならない)、時代物の様相なのに人が死なないと、浄瑠璃らしくない。犠牲となって命を捨てることも、勘違い/行き違いで死に至ることもない。ニセ首の首実検もない。
- 母・婆・乳母の存在がない。女性登場人物は、娘一人である。女性たちの「覚悟」や「情愛」が、時代物では大きな役割を果たすのに、娘だけが登場して、深まらない。
この作品の持つ力を伸ばして、度々上演される作品にするために、次のようなことをしてはどうかと考えた。まず、現行曲に加筆して、時代物らしい構成を、いっそうはっきりさせる。
- 「序」を付けて、左衛門父娘が阿蘇を追われる顛末を描く。序段には、現行「第五」にある阿蘇左衛門物語に含まれている内容を描く。
- 現行の「第五」と「第六」を入れ替える。
- 五段目に相当する部分を加え、茶坊主珍才と泥亀丸を置き去りにして、一行が船出する様子を描く。珍才と泥亀丸は「島の主」になるので喜ぶだろうが、それを「正しい者が元の地位に復する」という、時代物の大団円としてはどうだろう(「俊寛」の鏡像)。
こうすると、全体の構成が次のようになる。
序 段 阿蘇城内の段
船出の段
二段目 道行「嵐」(現行「第一 暴風雨」)
方術の段(現行「第二 窟の中」)
浜辺の段(現行「第三 浜辺」)
三段目 森の中の段(現行「第四 森の中」)
怪鳥の段(現行「第六 元の森の中」)
四段目 阿蘇左衛門物語の段(現行「第五 元の窟の中」)
再会の段(現行「第七 元の窟の中」)
五段目 船出の段
内容的には、次のようなものを加えてはどうだろう。
- 新序の切りで、美登里の母(または乳母)あるいは「婆」(阿蘇左衛門の伯母?)の死を描く。ここに、「犠牲としての死」の機能を持たせる。
- 上の「死」に対比させる意味でも、新四段目の切りで、春太郎のニセ首を、筑紫大領に首実検させる(現行「第五」の中で、阿蘇左衛門が春太郎の首を峰打ちする場面があるので、それを活かす)。これをもって、筑紫大領や刑部景隆に前非を悔いさせる(「もどり」)。
素人の勝手な考えだが、こうすると、現行のうち、素晴らしい「第四」「第五」も生きると思うのだが、どうだろう。