『ノア 約束の舟』(原題:Noah)という、聖書に基づいた映画が公開されている。よく知られた俳優が出演し、巨額の制作費を投じたものである。うたい文句には、「聖書に忠実」であることと、「大胆な解釈」によることが言われている。このレヴューでは、その2点について詳しく見ることにするが、その前に、全般的な印象を書いておこう。(ネタバレあり)
全般的な印象
映像化は「はじめて」であるかのような宣伝文句だが、1966年の『天地創造』では、この映画全編が洪水物語を扱っているわけではないがかなりのフィート数をこの部分に当てており、その映画の箱舟(後で述べるように竜骨のあるものだが)の描写はこの映画にも影響を与えていると思われる。また、2007年の『エバン・オールマイティ』でも箱舟の描写があり、コメディーながら、洪水を描いていた。宣伝のためと仕方ないとは言うものの、すこし誇張が過ぎないだろうか。
これと関連するが、鳥たちが箱舟に集まってくるシーンは、ヒッチコックの名作『鳥』を思わせた。他にも、荒れた地から突如として木が生え出すシーンは、『ナルニア国物語』の『魔術師のおい』の、アスランによるナルニア創造のシーンを想い起こさせた。もちろん、すべての作品は、意識的であると無意識的であるとを問わず、先行する作品からの引用で成り立っているのだが、後に述べるドレの聖書挿絵とも併せて、それらの影響は、比較的容易に見て取れるのではないか。
この映画を観た最大の印象は、ディストピア作品だということである。「ディストピア」とは、未来における反理想郷的な状況を描く作品を指すのだから、太古の世界を描く物語に用いるのは適切ではないだろう。しかし、そこに描かれているのは、欲望と力による支配という、現代社会の問題であり、それを描くことを目的とするという意味で、ディストピアというジャンルに(少なくともその亜種として)含めてよいと思われる。
従って、この映画は、聖書の洪水物語で描かれている出来事が本当はどのようなものであったかということには興味がなく、むしろ、聖書の解釈を通して、ある主張をすることに関心があるものとして観るべきだろう。それは、そのまま、「聖書に忠実」であることと「大胆な解釈」をしていることにおいて、程度の差を生み出すことになっている。
「聖書に忠実」か?
何よりも最初に記しておきたいことは、箱舟が、竜骨のある、近世以降の船としてではなく、文字通り、「箱」として描かれていたことである。多くの聖書挿絵で竜骨のある船として描かれているが、それは、時代錯誤で、しかも、聖書の原語tēbāh(文字通り、「箱」を表す語)に合致していない。細長い、水の上に浮かべるのはふさわしくない「箱」は、聖書の記述に忠実な描写である。
しかし、この映画を、聖書至上主義、キリスト教至上主義のキリスト教徒が観たならば、違和感を抱き、批判することだろう。
その最大の理由は、明らかに、聖書の記述とは異なる描写があるからだ。
箱舟に入った人たちは、ノアとその妻、3人の息子、セム、ハム、ヤフェト、そして、ノアと妻が救い、セムの妻となったイラである。ところが、聖書には、「妻子や嫁たち」(直訳すれば「息子たちと(ノアの)妻と息子たちの妻たち(いずれも複数)」創世記7章7節)がノアと共に箱舟に入ったとある。一般には、息子たちはすでに100歳(!)になっており(創世記5章32節、7章6節)、それぞれに妻があったと考えられている(新約聖書ペトロの手紙一3章20節参照)。ハムが自分の妻となるべき女性を求める描写、ナエルとの出会いと、心引き裂かれるような別れは、このことを反映していると思われるが、それでも、聖書の記述とは異なる。
次に、「番人」(“watchers”)のことである。彼らは、しばしば、“giants”「巨人」と呼ばれているが、これは、欽定訳(King James Version(KJV)、1611年)によって「ネフィリム」の訳語として用いられた(創世記6章4節)。KJVの影響は今もなお大きく、従って、英語圏の観客は、この「番人」を「ネフィリム」のことだと考えるだろう。だとすると、「神の子ら(息子たち)」が人間の女性に生ませたものとして描く聖書とは異なることになる。
また、“watchers”は、ダニエル書4章14節(KJV17節)にだけ現れる(新共同訳「見張りの天使」)。ここでは、この天使たちは天上にいると思われる。また、偽典第1エノク書では、彼らが神の命に背いて天から追放されたことが語られているが、人間を見守り、人間を助けるために、自らの意志で天から降って来たという映画の描写とは異なる。
第3に、箱舟の中で生き物は眠らされているが、聖書では食糧を用意するよう指示されており(創世記6章21節)、通常の生活が想定されていると考えられる。
第4に、トバル・カインが登場する。この人物については、聖書では、「青銅や鉄でさまざまの道具を作る者」と言われており(創世記4章22節)、それは映画でも描かれた。確かに、聖書の解釈者の中には、創世記4章後半のカインの末裔たちの描写がノアの時代の「悪」(創世記6章5節)の描写であるとする者があり(もう1つの有力な「悪」の解釈は、「ネフィリム」の存在が悪を表しているというものである)、筆者自身もその解釈に賛同するが、トバル・カインとノアの間に直接的な交渉があったとは、聖書は述べていない(トバル・カインについては後述する)。
最後に、聖書においては神(映画では、終始、“the Creator”と呼ばれていた)が語り、直接的に、言い換えるなら、実行に誤りのないように指示を与えるのだが(創世記6章7節、13〜21節、7章1〜4節、8章16〜17節、21〜22節、9章1〜11節、12〜17節)、映画でノアが受けるのは、ヴィジュアルなイメージだけである。これは、解釈に幅をもたらす。このことは、映画の中で重要な役割を果たすのだが、それについては、後に述べる。
これと関連して、「産めよ、増えよ、地に増えよ」という言葉は、映画ではノアが語っていたのだが、聖書では、神の言葉として記されている(創世記9章7節)。
聖書に親しんでいる観客なら、以上のような「違い」はすぐに気づくだろうし、従って、「この映画は聖書に忠実ではない」と判断するだろう。そこから、映画を批判し、観ないようにというキャンペーンも起こるかもしれない(アメリカではどうなのかは、寡聞にして知らない)。また、ノアが天地創造からカインとアベルの出来事を語るまでの映像の中に、あたかも、動物が「進化」していったことを思わせる部分があったが、これにも、原理主義的なキリスト教徒は反感を抱くだろう。しかし、それ以上に、キリスト教徒たちにとって問題なのは、映画が伝えようとしているメッセージだと思われる。
「大胆な解釈」
この映画を観て、真っ先に感じるのは、徹底的な「神の不在(もしくは、沈黙)」である。トバル・カインも、「番人」たちも、何度も「神」に問いかけ、答えが与えられないことを嘆く。ノアは幻視を2度経験するが、直接に神の語りかけを聞くことはなく、いろいろな場面で、自分の判断が神の意志に「従っている」と確信して行動しているだけである。
トバル・カインはノアの鏡像として、この映画では描かれているように感じているが、両者は、共に、神の意志を問題にしている。
トバル・カインは、神からの返答がないゆえに、人間は自分の意志と決断で行動すべきだと考えている。もちろん、それゆえに、トバル・カインは、自らの欲望に従い、力による支配を正当化するのである。トバル・カインは、そのための論理を、「神の像」(創世記1章27節参照)から導き出す。この語は、キリスト教において人間の尊厳を表すために用いられるのだが、神と自分との「類似性」を、共に、殺し(滅ぼし)、支配するところに見ている。これは、「神の像」たる人間が自然を支配してよいとする、西欧的(キリスト教的とは言わない)自然観に対する批判なのだろうか。
ところが、神の意志に従っていると自らのことを認識しているノアも、神の意志に従うというのは自らの欲望であって、これに従っており、また、家父長として、家族に対して力による支配を行っている。ハムの妻となるべき女性を得るべきかどうか、また、イラから生まれる子どもを生かしておくべきかどうか、すべて、家父長であるノアの判断にかかっており、ハムも、セムも、イラも、そして、妻も、この判断には疑問を抱き、ハムやセムは、ノアに反対して、具体的な行動に出る。ハムは箱舟に侵入してきたトバル・カインを保護し、トバル・カインの策略に荷担するという形で、セムはイラから生まれる子を殺すというノアを、身体的に阻止しようとする形で。
妻は、イラから生まれる子どもが女の子であれば殺すというノアに対して、“How is just?”と、極めて厳しい問いを投げかける。これまで家父長であるノアの判断に疑問を差し挟むことなく従ってきたが、今回は従えない。ノアの行動によって、ノアが自分自身を、家族から引き離してしまうことになると、舌鋒鋭く、批判し、警告する。箱舟が新しい大地に着いた後、ノアが一人家族から離れて住み、酒浸りの生活を送るようになったのは、もちろん、神の意志に完全には従えなかったという自責の念もあったろうが、この、妻による叱責も大きな影響を持っていたのではないかと思われる。
神に従う方法は何であるのかという、解釈の権限は家父長であるノアが持っていた。イラに子どもができたことを告げられたノアは、箱舟のデッキ(?)に出て、神に祈る。このとき、雨が止む。イラはこれを、子どもが生まれることを神が容認したと解釈するが、ノアはその解釈を受け入れない。また、イラの子どもたちを殺せないとノアが諦めた瞬間、鳩がオリーヴの枝を加えて帰って来るが、その解釈はなされないままである(観客はおそらく、これを、神の容認のしるしと読みとるだろう)。
自分も滅ぼされるべき人間の一員であることを悟ったノアの、その後の判断——すべての人間はぬぐい去られるべきであり、自分たちも徐々に死に絶えていくべきであるという判断——も疑問視されることになる。
洪水によって徐々に(!)殺されていく人びとの叫びが箱舟の中に届いたとき、イラもセムも、僅かの人でも箱舟に乗せるべきではないかと言う。セムは、それらの人びとを指して、「普通の人びと」という。「悪」に染まった、悪人ではないというのだ。ところが、ノアは、自分も含めて、人間はみな悪人で、洪水で殺されなければならないとの考えを変えない。
このとき、一瞬だけ、箱舟の外の光景が描かれるが、ギュスターヴ・ドレが聖書の挿絵に描いた銅版画を思わせる光景となっている。ドレの聖書挿絵は、今日でさえ印刷され、手に入れることができ、ことに、保守的なキリスト教至上主義の人びとには好まれているが、箱舟と洪水の箇所では、その悲惨さを描き、助け合い、生き延びようとする「普通の人びと」の善良さと努力を描いている。つまり、聖書の物語の書き方とは異なる物語の風景を描き出している(洪水の後の、死屍累々たる中を白い鳩が飛んでいく挿絵は、印象的である)。
このドレによる挿絵(とその解釈)は、この映画の「正義」のあり方について、基本的な考え方を提供しているように感じた。つまり、セムの言うように、外で死んでいくのは、ごく「普通の」善良な人びとであり、その死を、神の正義の達成のために必要なものとは受け止められないということだ。
ハムは自分が出会ったナエルのことを、“innocent”であり“good”であったと言う。悪であり、それゆえに滅ぼされてしかるべき人間というノア(が代弁する神)の認識に、真っ向から対抗している。ヘブライ語においては、「正しさ」を意味するtsedāqāhは「罪のないこと」、つまり“innocent”をも表す。ナエルは「罪がない」という点で、救われるべきだったのだとの主張が、ここにはある。トバル・カインとの戦いの後に言われたこの言葉に、ノアは反論しない。そして、おそらく、双子の女の子を殺そうとしたときには、“innocent”という語が、その手を(文字通り)止めたことだろう。
人間の存続をめぐる家族たちの疑問は、最初に箱舟を作るとしたノアの幻視、あるいはその解釈にも疑問を投げかけることとなる。本当に、ノアとその家族が、動物たちを生き延びさせるためだけに、箱舟を作るよう、神はノアにその幻視を与えたのか。ノアの解釈は正しかったのか。(ノアの解釈が正しかったとして、)神の判断は正しかったのか。そう、ノアの判断と行動に対する疑問は、最終的に、この神は、正しい神なのかどうかを問わせることになる。
「人間」=「男」からの脱却
最近の聖書解釈においては、一方で、聖書至上主義、原理主義的な傾向が強まっているが、他方で、聖書を本当の意味で批判的に読もうという動きも行われている。筆者は、後者に属するものだが、洪水物語における正義や審判の理不尽さは、同様の立場を取る解釈者たちによって強調されるようになっている。その声を、ノアの妻は代弁していたと言えるだろう。しかし、だからこそ、保守的なキリスト教徒は、この映画による問題提起には、抵抗を感じるだろう。
トバル・カインは、力による支配によって自らの欲望を満たそうとする点において誤っていた。同様に、ノアも、家父長としての支配によって、家父長的な神の正義を実行しようとした点で誤っていた。そして、それをノアに認めさせたのは、皮肉なことに、自分の支配下・庇護下にある女性たち、とりわけ、生まれたばかりの双子の女子たちという、力のない、弱い存在であった。
フェミニスト聖書解釈・神学に影響された筆者は、この映画において、「使命を与えられた(と思い込んでいる)男は誤る」というテーマが主張されていたと感じる。そして、その男に挑戦するのは女性である。しかも、最終的に勝利するのは、最も無力な女性——生まれたばかりの双子の女子である。
この映画では、「人間」と「男」は交換可能な概念として用いられていた。いずれも、“man”という語で表されていた。字幕では一貫して、「人間」と訳されていたが、ハムが刺したときにトバル・カインが言った言葉は、やはり、「これでお前も男だ」とすべきだろう。
ところが、この「人間」=「男」という男性優位主義こそ、家父長制と結びつくときに、たちの悪いものとして働く。物理的に力の強い男は女よりも優れたものとされ、当然、女を支配して良いと考えられる。それは、男の中にも力による支配を生み、序列化をもたらし、力には力をという原理を成立させる。その頂点に立つのが、トバル・カインであり、ノアであったのだ。両者は誤っていた。ただ、トバル・カインが最後まで「男」の支配を追及したのに対し、
ノアは「悔い改める」。
映画の冒頭で、ノアは、父レメクから祝福と責任を受けようとしていた(その場面で、父は殺されてしまう)。映画の最後では、ノアは、自分の子どもたちを、そこにはいないハムも含めて祝福し、責任を伝えるが、その後には、双子の女の子たちも祝福する。実際に、蛇の皮によって触れられるのは、この女の子たちだけである。ここでノアは「人間」=「男」の男性優位主義から一歩踏み出したことになる。
このように、この映画『ノア 約束の舟』は、家父長的、男性優位的な聖書の物語そのものに対して、疑問を投げかけさせることになるだろう。そして、ディストピアの中を生きる人間(「男」だけではなない!)は、どのような正義を求めるべきなのかを考えさせられることになるだろう。
ノアの妻が「憐れみ」を求めたのに対し、ノアは「憐れみ」の時代は終わり、裁きと正義だけが残るのだと言って、箱舟の事業を推進する。しかし、イラになぜ女の子たちを助けたのかと問われて、その時、自分の心には「憐れみと愛」しかなかったと言う。映画を通じて、“justice”「正義」と“mercy”「憐れみ」は反対語のようにして扱われてきた。「正義」と「憐れみ」が共に存在しうるような社会(詩編85編11節)、人間(再び、「男」だけではなない!)の結びつきを作ること、それが、新しい大地における私たちの責任なのだと、映画は訴えているようである。