2009年5月30日土曜日

「評価する」ということ

私のような仕事をしていると、「評価する」ということがついて回る。
学生の成績、同僚の業績、自分たちの学校の「目標達成度」……。

繰り返し言われることは、「客観的な判断基準に基づいた、公明正大で透明な評価」。
もちろん、この目標に疑義があるわけではない。
しかし、評価する者は一個の人間であり、独自の価値観や審美眼を持っている。評価される側も、固有の表現様式や価値観を持っている。この2つの間に「性に合う/合わない」ということは、もちろん、ある。
「公明正大で透明な評価」ということは、きちんとした説明のできる行動を取らなければならないということなのだろう。しかし、その「説明」も、受け止めようによっては、「説明になっていない」ということになる質のものなのだ。

だからこそ、評価する側は、「客観的」であろうと努力しなければならないし、「公明正大で透明」を目指さなければならない。
それにしても、神ならぬこの身が、どれほどその「目標」に到達できるのか。この点の「評価」は、自己採点でも、かなり辛いものにならざるを得ない気がする。

2009年5月24日日曜日

興味深いテーマの面白くない本

興味あるテーマの新書を買ってきて読んでみた。
1つは、マンガという表現形式と哲学の関係を考えるもの。もう1つは、「聖地」について考察するもの。どちらも、そのうち、自分でも何かを書きたいと思っているテーマ。

ところが、どちらも面白くない。理由は、
  1. 議論が雑駁 自分で立てたテーゼを、さして検証もせず、「論証された」とする。
  2. 読者を見下したような論調 あたかも、「自分だけが知っている・気づいている」と言わんばかりの書き方。
にあるように思えて仕方ない。
読者は、一緒にわくわくしたり、考えたりしたいのに、これだと、何だか、偉い先生の「ご講義」を拝聴しているよう。