2010年1月29日金曜日

言葉の裏表

最近、妻とたちの悪い「遊び」をしている。——妻との会話で、提案やお願い、詫びに返答するとき、答はだいたい肯定でそのように伝えるのだが、そのすぐ後に、同じ言葉を、正反対の意味に聞こえるように言う、という言葉遊びである。例えば、「そんなこと、全然気にしてないで」と言ったその後に、全く同じ言葉を、全然別のトーンと語り口で話し、正反対に聞こえるように、わざと話すのだ(上の息子までまねし始めたので、「教育上」よくないと思い始めたが)。

言葉には、語り方で全く異なる意味を伝える場合があるのだと分かる。これが、書かれた言葉、しかも、会話を主体としたものを読むという場合を想定するなら、同じテクストが正反対の意味を表しうるということになる。「よくやった」という言葉でさえ、声に出されるトーンによって、称賛ではなく、非難の意味を込めることも可能なのだ。私に関わるテクストで言うと、聖書がこれにあたる。こう考えると、聖書を読むことが、俄然面白くなる。

例えば、エデンの園の物語で、アダムに質問するヤハウェの次の言葉の間に、「間」を置く、あるいは「息を吸う」としたら、そこには、続けて読むのとは違う効果が生まれる。

「誰が、お前が裸だと教えたのか。……(間)……食べるなと命じて置いた木から取って食べたのか。」

この「間」で、ヤハウェが気付いたこと、驚いたこと、怒りなどを表すことができる。この読み方だと、イエスの言葉も、大阪で言う「嫌味百万遍」に聞こえるところがある。

聖書には「裏の意味」はないという考え方がある。もちろん、カルト教団が言うような「隠された意味」などあるわけないし、「バイブルコード」のような恣意的なパズルも成立するはずはない。しかし、言葉というものが持つ本来の性質によって、様々な読み方が可能なのだ。言語作品である聖書も例外ではない。「裏の意味」は、「表の意味」を読み出すための解釈装置を暴き出すことになる。

2010年1月17日日曜日

内向的な信仰

"Footprints in the Sand"という詩がある(オリジナルはここから読める)。アメリカでも日本でも、よく知られ、親しまれるようになった詩だ。最初読んだときは感動したし、今でも、キリスト教信仰の核心の部分を表現していると思う。

今日、改めてこの詩を聞く機会があった。すると、どうだろう。この詩の持つ個人的な側面が気になって仕方なかった。最近よく言われる言葉を使えば、「内向き」なのだ。それも徹底的に。
詩人が人生の道のりをふり返るときに、砂の上には「2組の足跡」しか発見しない。「自分」のものと「主」のものだ。ここで「主」と呼ばれているのはイエス・キリストのことだろうが、イエスの"companionship"という理解には共感するとしても、2人の足跡しかないというのはどういうことだ。私たちの人生にはもっとたくさんの足跡が入って来ては出て行っているはずではないか。
しかも、詩人は直に「主」と話することができる。「主」も詩人に直に返答する。極めて親密な関係で、「人生の辛く、苦しいとき」に「主」が詩人を「担って歩いていた」という発言があるほどである。

こういう信仰の形態を名付けるなら、「内向的神秘主義」とでも言うべきだろうか。神秘主義そのものについては、キリスト教信仰の最も重要な要素だと、私は思っている。ただ、それが、余に個人主義的になり、内向きになるとき問題になるとも思う。「私の救い」「私と〈主〉の関係」だけが重要になり、それ以外のことには
関心が向かなくなるからだ。そういう観点で見れば、”Footpints in the Sand"はまさに、内面的・個人主義的な感情の発露に他ならない。そして、その視線は内向きだ。
こう考えると、この詩が日本の教会で受け入れられる理由も分かる気がする。