2010年1月17日日曜日

内向的な信仰

"Footprints in the Sand"という詩がある(オリジナルはここから読める)。アメリカでも日本でも、よく知られ、親しまれるようになった詩だ。最初読んだときは感動したし、今でも、キリスト教信仰の核心の部分を表現していると思う。

今日、改めてこの詩を聞く機会があった。すると、どうだろう。この詩の持つ個人的な側面が気になって仕方なかった。最近よく言われる言葉を使えば、「内向き」なのだ。それも徹底的に。
詩人が人生の道のりをふり返るときに、砂の上には「2組の足跡」しか発見しない。「自分」のものと「主」のものだ。ここで「主」と呼ばれているのはイエス・キリストのことだろうが、イエスの"companionship"という理解には共感するとしても、2人の足跡しかないというのはどういうことだ。私たちの人生にはもっとたくさんの足跡が入って来ては出て行っているはずではないか。
しかも、詩人は直に「主」と話することができる。「主」も詩人に直に返答する。極めて親密な関係で、「人生の辛く、苦しいとき」に「主」が詩人を「担って歩いていた」という発言があるほどである。

こういう信仰の形態を名付けるなら、「内向的神秘主義」とでも言うべきだろうか。神秘主義そのものについては、キリスト教信仰の最も重要な要素だと、私は思っている。ただ、それが、余に個人主義的になり、内向きになるとき問題になるとも思う。「私の救い」「私と〈主〉の関係」だけが重要になり、それ以外のことには
関心が向かなくなるからだ。そういう観点で見れば、”Footpints in the Sand"はまさに、内面的・個人主義的な感情の発露に他ならない。そして、その視線は内向きだ。
こう考えると、この詩が日本の教会で受け入れられる理由も分かる気がする。