2017年1月25日水曜日

あらめでたなや

国立文楽劇場正月公演に行ってきた。正月にもはや恒例と言ってよいようになっている『寿式三番叟』だったが、感動のあまり涙を流すという体験をしたので、感じたことを記してみたい。
今回は、太夫と三味線が舞台上に2段に並ぶという演出で、私の席が下手の端で、前の方という条件が重なったためか、これまで聴いたよりも、義太夫の詞章に注意が向けられたのかもしれない。
正直な所、翁の太夫は一声出たところからすばらしいと感じたが、千歳の人形はあまり決まっていないなあと思っていた。翁の舞の荘厳さに、背筋を伸ばした。
ところが、三番叟の「籾の段」が終わり、「鈴の段」になったところの

〽︎五月のさ女房が笠の端を連ねて、早苗押っ取り打ち上げて諷うた

で、脳裏に、早苗の植わった、山間の田の様子が浮かんだ。
さらに続いて、

〽︎「千町」
 「万町」
 「億万町」
 田をばそんぶりぞ

と謡うと、その田が、見わたす限り広がっていくように感じたのだった。
これまでも文楽を聴いて何度も泣いてきたが、それは筋と義太夫に感動してのことだった。しかし、脳裏に田の光景が浮かぶというような、こんな体験をしたのははじめてで、気が付くと、涙が溢れていた。
これまでも、鈴の段の三味線を聴くと「血湧き肉躍る」思いを毎回していたのだが、祝いの曲である以上に、詞章にあるように、「天下泰平、国土安穏の今日のご祈禱」、芸能を越えて「神事」であることを実感したのだった。

〽︎なほも田を植ゑうよ

「美しい日本」とか「美しい国土」とかしきりに言う人たちがあるが、そこに住む私たちは、原発事故でこれを汚し、農を蔑ろにしているように思える。これを清め、そこに新たな活力を注ぐには神の力が必要だし、神の力を実際に表すのは普通の人の当たり前の労働なのだ。力強く土を踏み、倦まず(休みながらでも)種を蒔く、三番叟のように。

〽︎長久円満、息災延命、今日のご祈禱なり

私は、田を耕し、稲を植えるわけではないが、この山野を尊びたいと思ったし、願うことなら、私の日ごとの業が、人心享楽に繋がるものになりたいと思わされた。

2017年1月9日月曜日

「神話」を読む

昨秋、吉田一彦『『日本書紀』の呪縛 シリーズ〈本と日本史〉①』(集英社新書、2016年)を読んで以来、『日本書紀』に興味を(再び)持ち始めた。
吉田は、歴史書ではあるが、「政治的なものであり、歴史的事実とは異なる創作記事が多々記されている」と『日本書紀』の性格を看破した上で、どのような書物であって、その後、どのように影響してきたかを述べる。そして、その影響力は、「神話」として歴史性を否定された後も、つまり、現在も、その一部が歴史教育の中に残るほど続いているとする(まえがき)。「呪縛」と名づける所以である。
興味深いのは、『日本書紀』の「一書」が、「編纂の過程で調整がつかず、両論併記、各論併記されたもの」とする見解である(81-83頁)。これに対し、松本直樹は、『神話で読みとく古代日本—古事記・日本書紀・風土記』(ちくま新書、2016年)の中で、「一書」を含めた〈建国神話〉の「常識」があって、『日本書紀』の主文は、『古事記』や「一書」と共に、総体として読まれるべきことを主張している。
いずれにせよ、私が『日本書紀』研究、その読解に興味を持っているのは、ヘブライ語聖書の研究・読解と並行していると感じるからだ。
「イスラエル」の「正史」である「九書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)は、ダビデ王朝の正統性を、ヨシヤによる「申命記改革」の正統性のために主張する(この両者は「鶏と卵」の関係にあると思う)。そして、その最終的な形態においては、ダビデ王朝の復興への期待と「律法」による統治を両立させることになっている。
この「正史」の最初には「神話」が記されている。王国の祖ダビデからでも、「イスラエル」の原点となった「出エジプト」からでも、「イスラエル」の祖とされるアブラハムからでも始められたのに、「天地創造」の神話から始まっている。
「創世神話」と呼ばれたり、「原初史」と呼ばれたりするこの部分(創世記1〜11章)は、人類の普遍的な歴史を記したり、ましてや、この宇宙の成り立ちを説明したりすることを目的とはしていない。アブラハム、モーセ、ダビデと続く、この後の「歴史」(「歴史」として確認しうるのは、ダビデの時代とされる年代より150年ほど後の前9世紀以降だが、この語を用いておく)の起点として書かれている。つまり、最終的にはダビデ王朝を正当化するための「神話」なのだ。
『日本書紀』が同じ目的で「神話」を置いているという吉田の議論に大きく同意したし、その後の「書物の影響」についての記述も、ヘブライ語聖書と並行する部分が多いと感じた。
しばらく、『日本書紀』への関心から離れられそうにない。