2018年1月4日木曜日

駆除するのは

池の水を抜いて、掃除をするというのは悪くないと思っていた。ついでに、外来生物を駆除して、絶滅が危惧される在来種の繁殖を促すのも、やってみる価値のある取り組みだと思っていた。でも、番組を見ながら、ふと不安になった。進化論が「社会進化論」となったように、この「外来種」駆除が思想となって、人間にも向けられるのではないかと。「純粋な」〈日本人〉だけを残し、守ろうとならないか。アイデンティティの危機に、このような排除の論理が現れることは、ヘブライ語聖書にも書かれている、共同体の「性」のようなものだから(エズラ記・ネヘミヤ記参照)。そこへ環境省の役人たちが参加し、この時点でチャンネルを変えた。
もちろん、「在来種の保護」が環境省のミッションであることは理解できる。しかし、一民放テレビの番組に、働きかけがあったとはいえ、賛同し、参加するのはいいことなのか。
これまでの番組で「水を抜いた池」の追跡もやっていたが、そこで気になったのが、池の清掃を依頼した人や住民たちが、「一番よかったことは、共同体の絆が強くなったこと」のような発言をしていたこと。池の生物とはいえ、「排除」がきっかけで共同体がまとまるというのは、象徴的なように感じた。