なぜか、最終章を広島で観た(ちなみに、第1章は帯広で観た)。第2章を観ていないせいか、それとも、原作との違いのせいか、もうひとつ「面白かった!」とは思えなかった。映画としては、よく作られてあると思うのだが。 万丈目の最期、「いい者」になり方は、原作よりも「現実的」だった。"ともだち"の正体については、原作では突如言及される「カツマタくん」が「フクベエ」の「振りをしていた」と説明していた。これは、原作の巻き起こした疑問に答えたような形だと思った(第2章を観たら、この関連は溶けるのかもしれない)。結果、原作を読み終える度に感じる、胸を締め付けられるような思いはなく、単に「終わった」という印象だった。
ちなみに、"ともだち"(原作では「フクベエ」死後の"ともだち")の正体は、原作では「解決」していない。ケンヂの「〜だろ」という疑問が書かれているだけで、“Yes”も“No”もない。「未解決」のまま、物語は終わるのだ。
原作のすごいところは、過去の出来事を複数の視点から描いている点にあると思う。つまり、あらゆる情報を1人が知り、その「正解」を知ることがこのマンガを読む「目的」ないし「到達点」ではないということだ。「複数の視点」を保証する装置が、「ともだちランド」の「ヴァーチャルアトラクション」である。
ケンヂが、ヴァーチャルアトラクションの中でお面の少年に謝ったとしても、既に起こされてしまった現実を変えることはできない(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は過去に遡って現実を変えるのだが)。それでもケンヂが最後にアトラクションに入って謝るのは、現実に起きたことへの謝罪の意味があったのだろう。原作でケンヂが最後に口にする「いろいろあるけど、がんばれよ」という言葉は、中学2年時の(アトラクションの中の)ケンヂに言ったというより、自分自身に向けて語ったものだろう。過去に自分が犯した小さな罪が現実の世界をこんなにも変えてしまったという、信じられないような現実を受け入れ、そこから未来に向かって歩むことの辛さを語っているように思える。それに比べると、映画最後でのヴァーチャルアトラクションの場面は、「過去の罪を正した」という印象の方が強かった。
映画にしても、原作にしても、私たちの判断、そして、その判断に基づく行動が「世界を変える」というテーマで共通している。"ともだち"のような「人類の滅亡」を引き起こす決断でなくとも、私たちの、それも小さな決断と行動は、現実に「世界を変える」。そして、誰もが、「やり直したい」と思うあのときの決断と行動を持っているのだ。ケンヂの場合、それは、バッヂの万引きについての告白であり、それをせずには(正確には、ヴァーチャルアトラクションの中のケンヂにさせずには)いられなかった。それを告げるべき相手は、現実では、もう既に生きてはいないのだから。
私たちの判断と行動が「世界を変える」という事実に臆病になってはならないが、無頓着であってもならない。限界のある私たちは間違うこともあるし、失敗することもある。それでも判断し、行動し続けなければならない。この「責任」を負って生き続けるには、ケンヂの言うように「頑張る」しかないのだ。
♪グ〜タララ ス〜ダララの歌は、映画でも、大変重要な役割をしていた。
原作では、万博会場のフェスティバルで、ケンヂはこの歌を歌わない。直前に死んだ"ともだち"=「カツマタくん」への贖罪の意味を込めてのことであろうと思う。映画では、ケンヂが歌い、集った人々も歌う。これが希望の歌であり、それを共に歌うことで、新しい時代の到来を描きたかったのだろう。
この歌の歌う、ごくありふれた日常を守り、続けていくこと。「人類滅亡」という未曾有の危機にあっても、その生活を守ろうとすること、それこそが、「正しいこと」なのだ。「より大きな正義」「より高次の目標」(例えば、「宇宙と一つになる」)には、用心して対さなければならない。それが、この歌のメッセージのように思う(原作でも後半、「普通に生きる」ことが強調されていた)。そして、ありふれた日常を守り、続けることを、判断と行動の基準にしたいと、『20世紀少年』を読み、観る者に感じさせる。
マンガ『20世紀少年』は、政治、宗教をはじめとする「大きな物語」、個人の生という「小さな物語」の両方について、そして、この2つの関わりについて、さまざまな考察を促す佳編である。映画も、差異はあるにしても、原作の大切な部分を受け継いでいると思う。「大きな物語」が「小さな物語」の上位にあるかのように思われている現実の社会において、読まれ、観られる価値がある。