2009年10月6日火曜日

耳栓

最寄り駅から学校までバスに乗る(本当は歩いた方がいいのだけれど)。学校まで行くバスに乗ると、とくに、通学の学生が多い時間だと、バス停にいる案内係の人が、詰め合わせて乗るように促す。しかし、学生たちはその声に耳を貸さない。多くの学生は、イヤフォンをして音楽を聞いているから、その声を耳にしてすらいない。

私も、移動中に、イヤフォンをして音楽を聴くことがある。インイヤー式の上に、ウレタンフォームでぴったりと耳をふさぐもの。実質的に「耳栓」だ。
すると、周囲のことに注意が行かなくなる。車も歩行者も、列車や飛行機に同乗している人も、ぼんやりとしか認識できないようになる。ただ耳を塞いで、周囲の音を聞かないようにしているだけではない。その周囲とは関係のない音楽に意識を集中させているから、孤立した世界に入り込んでいるようなものだ。実際は、現実の(交通の、人混みの)ただ中にいるというのに。

青池保子のマンガ『エロイカより愛をこめて』の中に、「心の耳栓」という秀逸な表現があった。音声を聞くことは聞くのだが、その意味するところを受け入れるつもりもないし、それを語る相手に同意するつもりもない、そういう心の状態を前もってつくり出すことを語っていた。
「イヤフォン=耳栓」は「心に耳栓をした状態」つくり出すのだが、そういうものがなくても「心の耳栓」を用意している瞬間があると感じる。「聞かなくても分かっている」「聞いたって、同じことだ」という思い込みが、「心の耳栓」の正体だろう。もちろん、「先入見」なしに物事を受け止めることはできないし、「予断」なしに物事を判断することはできない。「心の耳栓」は、さらに、聞かない、理解しない、受け止めないという姿勢をまとっているのだ。

イヤフォンも「心の耳栓」も、時には必要なことがある。しかし、いつもしていては、私は本当に周囲から孤立してしまう。孤独を求めるのならいいのだが、周囲と関わらない状態を自らつくり出しながら、同時につながりを求めようとするのだから、心の動きというのは不思議なものだと思う。