最近、妻とたちの悪い「遊び」をしている。——妻との会話で、提案やお願い、詫びに返答するとき、答はだいたい肯定でそのように伝えるのだが、そのすぐ後に、同じ言葉を、正反対の意味に聞こえるように言う、という言葉遊びである。例えば、「そんなこと、全然気にしてないで」と言ったその後に、全く同じ言葉を、全然別のトーンと語り口で話し、正反対に聞こえるように、わざと話すのだ(上の息子までまねし始めたので、「教育上」よくないと思い始めたが)。
言葉には、語り方で全く異なる意味を伝える場合があるのだと分かる。これが、書かれた言葉、しかも、会話を主体としたものを読むという場合を想定するなら、同じテクストが正反対の意味を表しうるということになる。「よくやった」という言葉でさえ、声に出されるトーンによって、称賛ではなく、非難の意味を込めることも可能なのだ。私に関わるテクストで言うと、聖書がこれにあたる。こう考えると、聖書を読むことが、俄然面白くなる。
例えば、エデンの園の物語で、アダムに質問するヤハウェの次の言葉の間に、「間」を置く、あるいは「息を吸う」としたら、そこには、続けて読むのとは違う効果が生まれる。
「誰が、お前が裸だと教えたのか。……(間)……食べるなと命じて置いた木から取って食べたのか。」
この「間」で、ヤハウェが気付いたこと、驚いたこと、怒りなどを表すことができる。この読み方だと、イエスの言葉も、大阪で言う「嫌味百万遍」に聞こえるところがある。
聖書には「裏の意味」はないという考え方がある。もちろん、カルト教団が言うような「隠された意味」などあるわけないし、「バイブルコード」のような恣意的なパズルも成立するはずはない。しかし、言葉というものが持つ本来の性質によって、様々な読み方が可能なのだ。言語作品である聖書も例外ではない。「裏の意味」は、「表の意味」を読み出すための解釈装置を暴き出すことになる。