2012年10月11日木曜日

Well done.

今クワイアは、音楽チャペルと題して、各学部で歌っている。
その中で、"Hear My Prayer"という黒人霊歌風の合唱曲を取り上げているのだが、
今日、「". . . and to hear you say Well done."という部分を聴いて、心に染みた」
という感想を言っていただいた。
「年いったから、(神に)『よくやった』と言って欲しいと思うようになった」
と言われる。

この方がこういう感慨を持つのだと、少し意外な気もしたが、
私自身、この曲を練習しはじめたときから、
この "Well done" には、強い思いがあった。

この曲の最後は、こう歌う。

When my work on earth is done,
and You come to take me home.
Just to know I'm bound for glory,
and to hear You say Well done.

Done with sin and sorrow,
have mercy.

私の地上での働きが終わるとき、
あなたは私を故郷に連れ帰るために来てくださる。
私は知っている、私はやがて、栄光を受けて、
あなたから「よくやった」と言っていただくのを聞くのだと。

(その時には)罪も悲しみも、もはやない。

あわれんでください。

この曲は、「目覚めたとき」の祈りとして始まる。

しかし、その祈りの中では、
一日の最後に重ね合わせて、人生の最期のことを考えている。
忠実に、誠実に一日を過ごしたい、
そして、そのような一日一日を人生の最期まで積み重ねていきたいと、
真摯に願う。
そのような人生の最期には、
「よくやった」という労いの言葉が待っているのだと確信しながら。

この歌を聴くと、何人かの人を思い出す。

長寿を全うした人もあれば、若くして、早くに逝った人もある。
でも、私が出会ったその人びとは皆、
「よくやった」と言ってもらっているはずだと、私は確信している。
そして、私が出会ったその人たちのように、
私も、この人生の終わるとき、
「よくやった」と言われるような人生を送りたいと、
この歌を聴く度に心に思うのだ。

2012年7月14日土曜日

違和感

J. S. バッハの《「起きよ」と呼ぶ声》を、いくつか異なるアレンジで聴き比べることを思いついた。よく知られている《シュープラー・コラール》のオルガン版(BWV645)と、その基になった、カンタータ140番の中のテナーソロ(パートソロかもしれない)を聴き比べると、いつもバッハのオルガン曲を聴くと思うことなのだが、弦楽合奏プラス人間の声という原曲の方が温かく、「人間味」に満ちている。オルガンの「トリオ・ソナタ」になると、どうしても、厳格な「構築物」に聞こえてくる。
スイングルシンガーズの『ジャズ・セバスチャン・バッハ』という、もはや古典と言える録音を聴くと、その感をいっそう強くする。ジャズアレンジなど、最小限に抑えられているのだが、「今」を生きる音楽、それも、「粋」な音楽になる。
インターネット上で見つけたのが、平原綾香の歌う《Sleepers, Wake》だ。『My Classics 2』というアルバムに収められているらしい。こんな歌詞が付けられていた。

(くりかえし)
The sun is up!  Brand new morning.
Sleepers, wake! a voice is calling.

春が聞こえる 私が目覚める
あたらしい夢 孤独な日は今日から去りゆき
昨日までの暗闇を取っ払って 光の中へ

すべてに愛されてる 私はひとりじゃない

胸が高鳴る 私が生まれる
あたらしい歌 今君に届け 世界中へ
昨日までの過去さえも取っ払って 未来の中へ

(くりかえし)

こだわっていた 奪われていた
あるがままに ありのままに生きてと
こころが教える こころが動き出す

花の香りに 背中を押す風に 朝日に
今 目を閉じて 私を信じて

(くりかえし)

生まれてよかった 私でよかった
あこがれてたしあわせは いつだってここから
あたらしい世界から そう 本当の私が始まる

これから書くことはあくまで、バッハの好きな、クラシックの合唱、ことに宗教音楽で、音楽の美しさに目覚めた、キリスト教徒の感想なので、同意できないという人も多いと思うが、正直言って、違和感を拭えなかった。
“Sleepers, wake”というのは、コラール「『起きよ』と呼ぶ声」の英語詞として定着しているもので、それを使っているところはなかなかのものだと思うし、スキャットは見事だと思う。全曲スキャットだったら(スイングルシンガーズのように)、こんな違和感もなかったろうにと思う。
楽曲に対する尊敬から、丁寧に演奏することを通して、演奏者が浮かび上がってくる……こういう「回路」が私の中でできあがっている。ところが、平原の演奏は、平原の言いたいこと、ないしは、平原という演奏者を表現するために音楽が利用されているように感じられるのだ。そこに違和感の出発点がある。
バッハの原曲で創作の源泉となっているコラールは、平原の演奏(編曲)では一顧だにされない。“Sleepers, wake”という冒頭の一文(英訳)は使われても、そのコラールが歌わんとしていることは平原作詞の歌詞には何の影響も与えない。
むしろ平原は、この一文から、スピリチュアル・ブーム、ニュー・エイジによく見られるような、「自己の覚醒」というメッセージを歌っている。その「覚醒」も、禅仏教が一生をかけて追究するような、深みのあるものではないように感じられる。
「あるがままに ありのままに生きる」ことは言うほど簡単ではない。「こだわり」から本当に自由になるなどということは、長い葛藤と、おそらくは修行の末に可能になることなのだと思う。しかし、そんな道程には、この歌は、関心がない。「目覚めた」「(新たに)生まれた」ということだけが歌われる。「こだわっていた」「奪われていた」「眠っていた」の次の瞬間は、覚醒である。
原曲のコラールは、むしろ、人間の解放が「外」から来ることを歌っている。外から来る解放を告げる「声」も外から響くのだ。平原の歌を聴いていると、むしろ、「自分」というものに強くこだわっているように感じられるし、その「自分」が変わらずに「自分」のままであり続けることを望んでいるように思われる。そうすると、「私でよかった」は、自己肯定の言葉のように、文字面は見えるが、実は、とても深刻な逃避のように思えてくる。その逃避からは、真の覚醒は生まれてこないのではないか。
葛藤や苦しみのないことが、「本当の私」だろうか。「あたらしい」のだろうか。むしろ、こだわりや葛藤や苦しみや闇を抱え続けて生きる、その矛盾を引き受けることが「生」だと「目覚め」なければならないのではないか。

ライブの様子はYouTubeで見られる。

http://www.youtube.com/watch?v=NrkaQavy0tA&feature=related

2012年1月9日月曜日

演奏会のお知らせ

CD「だから今日希望がある」発売記念コンサート

日 時 2012年2月18日(土)15時開演(14時30分開場)
会 場 日本キリスト教団神戸聖愛教会
入場料 1,000円(チケット代収益の一部を東日本大震災の被災地へ寄付します)


CDについて、コンサートについては、次のHPをご覧ください。