J. S. バッハの《「起きよ」と呼ぶ声》を、いくつか異なるアレンジで聴き比べることを思いついた。よく知られている《シュープラー・コラール》のオルガン版(BWV645)と、その基になった、カンタータ140番の中のテナーソロ(パートソロかもしれない)を聴き比べると、いつもバッハのオルガン曲を聴くと思うことなのだが、弦楽合奏プラス人間の声という原曲の方が温かく、「人間味」に満ちている。オルガンの「トリオ・ソナタ」になると、どうしても、厳格な「構築物」に聞こえてくる。
スイングルシンガーズの『ジャズ・セバスチャン・バッハ』という、もはや古典と言える録音を聴くと、その感をいっそう強くする。ジャズアレンジなど、最小限に抑えられているのだが、「今」を生きる音楽、それも、「粋」な音楽になる。
インターネット上で見つけたのが、平原綾香の歌う《Sleepers, Wake》だ。『My Classics 2』というアルバムに収められているらしい。こんな歌詞が付けられていた。
(くりかえし)
The sun is up! Brand new morning.
Sleepers, wake! a voice is calling.
春が聞こえる 私が目覚める
あたらしい夢 孤独な日は今日から去りゆき
昨日までの暗闇を取っ払って 光の中へ
すべてに愛されてる 私はひとりじゃない
胸が高鳴る 私が生まれる
あたらしい歌 今君に届け 世界中へ
昨日までの過去さえも取っ払って 未来の中へ
(くりかえし)
こだわっていた 奪われていた
あるがままに ありのままに生きてと
こころが教える こころが動き出す
花の香りに 背中を押す風に 朝日に
今 目を閉じて 私を信じて
(くりかえし)
生まれてよかった 私でよかった
あこがれてたしあわせは いつだってここから
あたらしい世界から そう 本当の私が始まる
これから書くことはあくまで、バッハの好きな、クラシックの合唱、ことに宗教音楽で、音楽の美しさに目覚めた、キリスト教徒の感想なので、同意できないという人も多いと思うが、正直言って、違和感を拭えなかった。
“Sleepers, wake”というのは、コラール「『起きよ』と呼ぶ声」の英語詞として定着しているもので、それを使っているところはなかなかのものだと思うし、スキャットは見事だと思う。全曲スキャットだったら(スイングルシンガーズのように)、こんな違和感もなかったろうにと思う。
楽曲に対する尊敬から、丁寧に演奏することを通して、演奏者が浮かび上がってくる……こういう「回路」が私の中でできあがっている。ところが、平原の演奏は、平原の言いたいこと、ないしは、平原という演奏者を表現するために音楽が利用されているように感じられるのだ。そこに違和感の出発点がある。
バッハの原曲で創作の源泉となっているコラールは、平原の演奏(編曲)では一顧だにされない。“Sleepers, wake”という冒頭の一文(英訳)は使われても、そのコラールが歌わんとしていることは平原作詞の歌詞には何の影響も与えない。
むしろ平原は、この一文から、スピリチュアル・ブーム、ニュー・エイジによく見られるような、「自己の覚醒」というメッセージを歌っている。その「覚醒」も、禅仏教が一生をかけて追究するような、深みのあるものではないように感じられる。
「あるがままに ありのままに生きる」ことは言うほど簡単ではない。「こだわり」から本当に自由になるなどということは、長い葛藤と、おそらくは修行の末に可能になることなのだと思う。しかし、そんな道程には、この歌は、関心がない。「目覚めた」「(新たに)生まれた」ということだけが歌われる。「こだわっていた」「奪われていた」「眠っていた」の次の瞬間は、覚醒である。
原曲のコラールは、むしろ、人間の解放が「外」から来ることを歌っている。外から来る解放を告げる「声」も外から響くのだ。平原の歌を聴いていると、むしろ、「自分」というものに強くこだわっているように感じられるし、その「自分」が変わらずに「自分」のままであり続けることを望んでいるように思われる。そうすると、「私でよかった」は、自己肯定の言葉のように、文字面は見えるが、実は、とても深刻な逃避のように思えてくる。その逃避からは、真の覚醒は生まれてこないのではないか。
葛藤や苦しみのないことが、「本当の私」だろうか。「あたらしい」のだろうか。むしろ、こだわりや葛藤や苦しみや闇を抱え続けて生きる、その矛盾を引き受けることが「生」だと「目覚め」なければならないのではないか。
ライブの様子はYouTubeで見られる。
http://www.youtube.com/watch?v=NrkaQavy0tA&feature=related