2015年4月20日月曜日

復活節に思うこと

ヘンデル《メサイア》の最終曲を聴くと、夕暮れのイメージが浮かんで来る。掉尾を飾る「アーメン」のフーガに人生の終わりを重ねあわせて聴くのが、私にとっては、もはや、デフォルトのようになっている。
このフーガは、明快な主題が段々と展開され、カノンや鏡像になった主題も盛り込みながら、段々と複雑になって進んで行く。そして、5つの和音からなる最後のコーダの直前に、属七の和音が第3展開で鳴らされ、1小節の休み、後の音楽用語を使えば、いわゆる「ゲネラル・パウゼ(GP)」がある。
ふと思ったことがある。この曲を「人生」に喩えるとしたら、私が生きて、奏でることができるのは、このGPの前までなのではないかと。私は精一杯、意味ある人生を送ろうとし、努力している。それでも、私は、自分の人生に終止のハーモニーを書くことができない。多分、最後に奏でることができるのは、終わりに向かって開かれた、しかも、不安定な(属七の和音の第3展開のような)和音なのだろう。
しかし、私には、これが、慰めに満ちていると感じられるのだ。GPの後、おそらく、だれかが、私の人生の最期を締めくくり、意味を見出してくれるだろう。私自身がまとめ上げられなくても、私自身が意味を見いだせなくてもいい。私をよく知り、私よりも私を知るだれかが、奏で得た最後のハーモニーを引き受けて、完成させてくれる。だから、開かれたままでいいのだ。
「復活」ということについて、いろいろなとらえ方があるだろう。こんなことを言えば、「復活の力が分かっていない」と批判されるかもしれない。しかし、私には、この「最後の仕上げは誰かがしてくれる」という信頼が、「復活の希望」に思えるのだ。