2015年6月9日火曜日

少し遅くなったが

ある学校の「ペンテコステ礼拝」に、今年も招かれた。

ペンテコステとは、イエス復活の50日後、イエスの弟子たちに「聖霊」がはじめて降ったことを記念する、キリスト教の祝日。この学校では、移動祝日であるペンテコステを学校行事として行うために、日程を固定しておられる。それで、教会での祝日より、少し遅くなった。

「聖霊」という訳だと、なんだか、「幽霊」のように感じるし、古い英語の訳“Holy Ghost”ならなおさらだ。「霊」と訳されている言葉は、ギリシャ語だと「プニューマ」、ヘブライ語では「ルーアハ」。ラテン語の“spiritus”も含めて、皆、「息」というのが原義だ。
神からの「霊」は、私が産声を上げた瞬間から、私のからだに満ちている。息を吸い、吐く、その一息一息が、実は神からの贈り物で、私が生きていることそのものが恵みに満ちた奇跡なのだ。私はそのことを、参禅の体験から教えられた。

この息が「神の息」であるなら、私のからだは、「神の器」である。このように考えると、この神からの息とからだを使って、何をすべきか(そして、何をしてはいけないか)ということに思いを致さざるを得ない。
よい言葉を語りかけ、美しい歌を歌い、慰めと励ましのために周囲の人のからだに触れ、倒れようとする人を支え、共に歩くために手をつなぐ……そんな歩みを目指して生きたい。

こんな話をした。短い時間だったが、みんなで息に気持ちを集中させることもした。だれよりも私自身が、この息とからだをつかってすべきことを考えさせられた。