2016年3月27日日曜日

ハイドン《十字架上の七言》(その2)

ハイドンのこの曲は、「赦し」に満ちていると前のブログで書いた。イエスの言葉を思い起こす7つのソナタからは、死に行く人、それも、政治犯として処刑されている人の悔しさや辛さ、痛みより(もちろん、それらも短くは表現されるのだが)、「赦し」と「あわれみ」を感じとることができる。
ただ、これらのソナタを取り囲む、全体の「枠組」となっている2曲は、ソナタの「甘美さ」と著しい対照になっている。
序曲は厳粛であり、これから物語られる(思い起こされる)出来事が深刻なものであることを感じさせる。終曲の「地震」は、ここまでのソナタ群を否定するかのように激しく演奏されるが、この出来事が「自然」を超えたものであることを示している。
ハイドンの天才は、「赦し」や「あわれみ」がもたらされるために、どれほどの痛みや悲しみがあったかをも描き出している(それでも、重点は「赦し」にあると思うが)。
私たちは、「赦し」や「あわれみ」を受けたいと願う。また、平穏な気持ちで日々の生活を過ごしたいと思う。しかし、それらの穏やかなものの背後に、底には、だれかの悲しみや苦しみ、痛みがあることを忘れないようにしたい。「赦し」や「あわれみ」、「平安」をもたらす働きをしたい。
イースターの朝、「平和のあいさつ」を交わしながら、改めて、そう思った。