キリスト教の礼拝カレンダーでは、今日、2016年3月25日は、イエスの死を記念する「聖金曜日」。この日は多くの教会で礼拝が行われるが、今日は、畏友が牧師をする教会に出かけた。
というのも、ハイドンの《十字架上の七言》(弦楽四重奏版)が、生で演奏されると聞いたから。礼拝の中での演奏が、この曲が作曲された目的であることは言うまでもないが、実際にそれを体験できる機会は、そうあるものではない。
全曲を演奏すると80分にもなる大曲をどうするのかと思っていたが、本質的な部分を失わない、見事な短縮(ほとんどのソナタは、主題提示部と終結部のみになっていた)で、聖書朗読と牧師による短い黙想を含めても1時間程度の礼拝にまとめ上げていた。演奏は手堅く、この曲の持つニュアンスを十分に聴かせた。牧師の黙想も素晴らしく、イエスが十字架の上で語ったと新約聖書に記録されている言葉について、深く思いをめぐらせることができた。それには、各曲の「短縮」が大いに効果的であったと言えるだろう。
とくに印象に残ったのは、ソナタ1とソナタ2。
ソナタ2は、短調の部分と長調の部分が交替するが、それは、一緒に十字架刑に処せられている犯罪人のうちの1人とイエスとの対話を象徴しているように感じた。
この犯罪人は自分の処刑を、「自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」としながら、イエスは「何も悪いことをしていない」と言い、イエスに向かっては、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。それに対しイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と応える(ルカによる福音書23章41〜43節)。
短調の部分は、この犯罪人の、自らの非を認め、それが赦されることを願う、切実な思いを表し、長調の部分は、彼の願った(そして、キリスト教徒の願う)「楽園」の穏やかさとあたたかさに満ちている。こうして、十字架の上でイエスが死んだことで、「赦し」が実際のものになったことが感じられる。
ソナタ1は、十字架につけられたときにイエスが言った、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)という言葉に基づいている。後にハイドン自身が編曲したオラトリオ版を知っているので、第1ヴァイオリンの最初の2つの音が “Vater” と歌っているように聞こえる。
このソナタに満ちているのは、「赦し」の感情だと感じた。残酷極まりない死刑の方法である十字架につけられて、このあと6時間後には死ぬ人の言葉について思いをめぐらせるにしては、この曲は、穏やかで甘い。もちろん、鋭いハーモニーも、厳しい音の部分もあるのだが、それらゆえに、かえって、曲想の穏やかさが際立つようになっている。しかし、その穏やかさが「赦し」を表現しており、この「赦し」こそがこの大曲全体を支配している感情なのだと、今日の演奏を聴きながら思い至った。
私たちは、今まで生きてきた中で、よいこと、誇れることもしてきたが、悪いこと、できれば忘れてしまいたいようなこともしてきた。よいことを願いながら、必ずしもそれを実行できないのが私たちの現実で、キリスト教が「罪」というとき、この現実を厳しく見つめているのだと思う。
しかし、同時に、私たちはそうしか生きられないのだから、その中で最善の努力をするしかない。努力しても満点にならないことを知りながら。そのことに気づくと、「赦し」を求めずにはいられない。ハイドンの《七言》は、私たちが願い求める「赦し」を、整った、甘美な音楽にして、私たちの眼前(こんな言葉はないが、「耳前」と言うべきか)に現出させる。
今日の礼拝に出て、「十字架上の七つの言葉」や「十字架の道行」の黙想を書いてみたいと思った。