2009年10月16日金曜日

ナンバーワンよりオンリーワン……でいいの?

タイトルは、本田哲郎神父が来学して、合同チャペルでお話しくださった際のもの。その内容は、私が聞き取ったところでは、かなりおおざっぱな要約だが、次のようなものだった。

SMAPの「世界で一つだけの花」という歌や、金子みすゞの「みんな違って、みんないい」という詩を、最初は、キリストの福音と通じるものとして受け止めていたが、段々と違和感を抱くようになった。大きな花を咲かせている人もいれば、小さな花しか咲かせられない人がある。「みんな違って、みんないい」と言っているだけでは、すれ違うだけで、平和や一致はない。最も小さな花しか咲かせられないようにされた人々の思いに意識的につながることで、はじめて、平和を実現することができる。

穏やかな語り口で、大切なメッセージを伝えてくださったが、聞きながら、私はちょっと違うことを考えていた。

「ナンバーワンよりオンリーワン」という歌に込められたメッセージに共感しているのは、自分が「小さな花」だと感じている人であろう。そして、この歌(とそのメッセージ)がこれほど受け入れられるのは、多くの人が、自分は「小さい」と感じている証拠であろう。そして、そう感じている人にとって、「それぞれ、そのままでいい」、「オンリーワンになればいい」という言葉は、慰めをもたらすものであることは間違いないし、その慰めは語られなければならないとも思う。
しかしながら、現在の社会においては、「ナンバーワンよりオンリーワン」を言うことの危険性もあると思う。それは、「諦め」を促す言葉になりかねない。「それぞれがそのままでいいのだから、今の自分で満足しましょう」というように。「吾唯知足」というのは、心の平安のためにどうしても到達しなければならない境地だと思う。しかし同時に、それが「今の自分で満足しよう」というメッセージになってしまうなら、変化は起こり得ず、自ら「差」を固定化してしまうことになる。さらには、誰か他の者、とくに力ある者が言う場合、それは、不正や不平等を固定化するための方策になってしまう。これでは、「慰め」のふりをして「絶望」を語ることになりかねない。

もう一つの問題は、本田神父も指摘しているように、このメッセージへの共感が、極めて「内向き」なことである。関心は「自分」にしかない。「自分はオンリーワンである」ということを聞いて、安心し、慰められる。しかし、そこまでである。同じように感じている人に、「あなたはオンリーワンです」と伝えることにはつながらない。この2つの間には、大きな隔たりがあるように思う。

SMAPや、作曲者である槇原敬之がこのうたを歌うときは、大変感動的だが、その受容に違和感を抱いていたのは、こういうことだったのだと思い至った。
私たちの一人一人が「オンリーワン」であることは、キリスト教の観点からすると、「自明のこと」である。その「自明のこと」を確認しなければならない、確認したいという人がこれほど多くいるという状態に社会があることは、大問題だと思う。しかし、それが確認で終わるなら、いっそう問題であろう。
「オンリーワン」であることは極まっているのだから、どんな「オンリーワン」でありたいと願うのか。そのことで、私は誰と、どうやってつながって生きていくのか。「オンリーワンなのだから」から始まる次のセンテンスがあって、はじめて、このメッセージは人を生かすものになると思う。

「慰めの言葉」が実は「絶望」を語っていたということにならないために、耳に心地よい言葉には注意しなければならないと感じた。