これは、仏教(高野山真言宗)に対する 「リップサービス」として言われたものだ。それが、問題である。何かを持ち上げるのに他のものを批判するというのは、上等なやり方ではないと思う。
「キリスト教」と並んで「イスラム」が言及されたのは、現在、各地で、ことにアフガニスタンで行われている紛争がこの両者の「宗教的」争いであるとの認識に立ったものでもあろう。私は、この認識には組みしない。問題は宗教にあるのではなく、政治と経済にあるのだ。宗教が問題だとするのは、世界の政治的枠組、経済的枠組に対する免罪となりかねない。
しかし、翻って、キリスト教について自ら検討してみると、表層の部分での言葉の意味では、その通りだとも思う。
キリスト教は「救い」という看板を掲げ、「救われた者」と「救われていない者」を区別するが故に、その本質において、排他的な一面を持ち合わせている。「共同の食卓に加わる資格があるのは誰か」ということを議論していること自体、この排他性を証明していると思われる。
一方でキリスト教信仰においては、唯一の神が「全知全能」で「善」であり、すべての人を「愛している」と言う。その一方で、「救われている者」と「救われていない者」の区別を行う。これは、絶対的な論理矛盾である。多くのキリスト教徒はこのことに気づいていないばかりか、自分が「救われた者」に入っていることで満足している。これでは、キリスト教が「排他的」と言われても仕方ないと思う。
私は相変わらず、この社会において、キリスト教を含む宗教には果たすべき役割があると思っている。さまざまな課題に、宗教の側がアプローチしなければならないと思う。しかし、既成宗教がその課題を真剣に受け止めるなら、その体質を改善する必要もあると思う。「より包括的な」キリスト教のあり方が、今日、大きな課題であると感じている。
私は相変わらず、この社会において、キリスト教を含む宗教には果たすべき役割があると思っている。さまざまな課題に、宗教の側がアプローチしなければならないと思う。しかし、既成宗教がその課題を真剣に受け止めるなら、その体質を改善する必要もあると思う。「より包括的な」キリスト教のあり方が、今日、大きな課題であると感じている。