2016年12月4日日曜日

関西学院聖歌隊クリスマスコンサート

関西学院聖歌隊のコンサートです。学内、学外を問わず、どなたでもご来場いただけます。入場無料、予約なども必要ありませんので、お気軽にお越しください。

12月9日(金)午後6時半 キャンドルライトサーヴィス
 ロウソクの灯りの下、朗読とキャロルで
 クリスマス物語を綴ります。

12月17日(土)午後2時半 ファミリーコンサート
 クリスマスキャロルと《メサイア》から合唱曲を演奏します。

12月23日(金)午後6時半 《メサイア》コンサート
 ヘンデル作曲の名曲から、合唱を中心に演奏します。

場所はいずれも関西学院ランバス記念礼拝堂(上ケ原キャンパス)です。



2016年10月25日火曜日

Lecture Concert〜キリスト教音楽の魅力

キリスト教音楽の歴史をたどりながら、キリスト教音楽が伝えようとしているものを探ります。
どなたでもご来場いただけます。入場無料、予約なども必要ありません。


2016年9月17日土曜日

エアフルト聖アウグスティン教会合唱団コンサート

ドイツ、エアフルトから合唱団が来日し、関西学院でコンサートを開かれます。

と き 2016年10月11日(火)午後6時開演
ところ 関西学院中央講堂(125周年記念講堂)
    (上ケ原キャンパス)

この合唱団は、宗教改革者マルティン・ルターが修道士として過ごしていたエアフルト聖アウグスティン教会を本拠として活動しておられます。
宗教改革500年を前に、ルター作詞の賛美歌をバッハやメンデルスゾーンの和声・編曲で歌われるほか、ドイツの教会音楽を演奏されます。
日独文化交流という目的もありますので、関西学院聖歌隊が賛助出演し、アジアのキリスト教音楽を歌います。
入場無料、予約なども必要ありません。
皆さま、どうぞ、ご来聴ください。

http://www.kwansei.ac.jp/c_christian/news/2016/news_20160914_013239.html


2016年7月19日火曜日

関西学院聖歌隊定期演奏会

関西学院聖歌隊の定期演奏会が行われます。

2016年9月16日(金)午後7時開演(午後6時30分開場)
宝塚ベガホール

入場無料、整理券なども必要ありません。皆さまのご来聴をお待ちしています。


2016年6月8日水曜日

神戸聖愛教会初夏のコンサート

今年も、関西学院聖歌隊が、神戸聖愛教会でコンサートをさせていただきます。今取り組んでいる曲を演奏します。
入場無料、予約なども必要ありません。
お近くの方、お時間のある方、ぜひお運びください。

2016年5月7日土曜日

関西学院聖歌隊の演奏

関西学院聖歌隊、5月の演奏予定です。

1 ペンテコステヴィジル
  5月14日(土)17時、川口基督教会
お招きを受けて、As the Wind Song、If Ye Love Me、「聖霊よ はげしく」という聖霊に関する合唱を3曲演奏します。

2 ヌーンコンサート
  5月19日(木)12時50分、ランバス記念礼拝堂(上ケ原)
今学期練習している曲のショウケースコンサートです。
どちらも、どなたでも、ご来聴いただけます。入場無料、予約なども必要ありません。

2016年4月20日水曜日

祈りの気持ち

こんなに余震が続き、いわばひっきりなしに揺れを感じていると、どれほど不安なことでしょうか。1995年の兵庫県南部地震を経験した者としては、察するに余あります。
まずは、避難所や自主的な避難の場所での生活が安定しますように。そこから先へ歩み出す気持ちと体力が蓄えられますように。

2016年3月27日日曜日

ハイドン《十字架上の七言》(その2)

ハイドンのこの曲は、「赦し」に満ちていると前のブログで書いた。イエスの言葉を思い起こす7つのソナタからは、死に行く人、それも、政治犯として処刑されている人の悔しさや辛さ、痛みより(もちろん、それらも短くは表現されるのだが)、「赦し」と「あわれみ」を感じとることができる。
ただ、これらのソナタを取り囲む、全体の「枠組」となっている2曲は、ソナタの「甘美さ」と著しい対照になっている。
序曲は厳粛であり、これから物語られる(思い起こされる)出来事が深刻なものであることを感じさせる。終曲の「地震」は、ここまでのソナタ群を否定するかのように激しく演奏されるが、この出来事が「自然」を超えたものであることを示している。
ハイドンの天才は、「赦し」や「あわれみ」がもたらされるために、どれほどの痛みや悲しみがあったかをも描き出している(それでも、重点は「赦し」にあると思うが)。
私たちは、「赦し」や「あわれみ」を受けたいと願う。また、平穏な気持ちで日々の生活を過ごしたいと思う。しかし、それらの穏やかなものの背後に、底には、だれかの悲しみや苦しみ、痛みがあることを忘れないようにしたい。「赦し」や「あわれみ」、「平安」をもたらす働きをしたい。
イースターの朝、「平和のあいさつ」を交わしながら、改めて、そう思った。

2016年3月26日土曜日

ハイドン《私たちの救い主の十字架での最後の七つの言葉》

キリスト教の礼拝カレンダーでは、今日、2016年3月25日は、イエスの死を記念する「聖金曜日」。この日は多くの教会で礼拝が行われるが、今日は、畏友が牧師をする教会に出かけた。
というのも、ハイドンの《十字架上の七言》(弦楽四重奏版)が、生で演奏されると聞いたから。礼拝の中での演奏が、この曲が作曲された目的であることは言うまでもないが、実際にそれを体験できる機会は、そうあるものではない。
全曲を演奏すると80分にもなる大曲をどうするのかと思っていたが、本質的な部分を失わない、見事な短縮(ほとんどのソナタは、主題提示部と終結部のみになっていた)で、聖書朗読と牧師による短い黙想を含めても1時間程度の礼拝にまとめ上げていた。演奏は手堅く、この曲の持つニュアンスを十分に聴かせた。牧師の黙想も素晴らしく、イエスが十字架の上で語ったと新約聖書に記録されている言葉について、深く思いをめぐらせることができた。それには、各曲の「短縮」が大いに効果的であったと言えるだろう。
とくに印象に残ったのは、ソナタ1とソナタ2。
ソナタ2は、短調の部分と長調の部分が交替するが、それは、一緒に十字架刑に処せられている犯罪人のうちの1人とイエスとの対話を象徴しているように感じた。
この犯罪人は自分の処刑を、「自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」としながら、イエスは「何も悪いことをしていない」と言い、イエスに向かっては、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。それに対しイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と応える(ルカによる福音書23章41〜43節)
短調の部分は、この犯罪人の、自らの非を認め、それが赦されることを願う、切実な思いを表し、長調の部分は、彼の願った(そして、キリスト教徒の願う)「楽園」の穏やかさとあたたかさに満ちている。こうして、十字架の上でイエスが死んだことで、「赦し」が実際のものになったことが感じられる。
ソナタ1は、十字架につけられたときにイエスが言った、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)という言葉に基づいている。後にハイドン自身が編曲したオラトリオ版を知っているので、第1ヴァイオリンの最初の2つの音が “Vater” と歌っているように聞こえる。
このソナタに満ちているのは、「赦し」の感情だと感じた。残酷極まりない死刑の方法である十字架につけられて、このあと6時間後には死ぬ人の言葉について思いをめぐらせるにしては、この曲は、穏やかで甘い。もちろん、鋭いハーモニーも、厳しい音の部分もあるのだが、それらゆえに、かえって、曲想の穏やかさが際立つようになっている。しかし、その穏やかさが「赦し」を表現しており、この「赦し」こそがこの大曲全体を支配している感情なのだと、今日の演奏を聴きながら思い至った。
私たちは、今まで生きてきた中で、よいこと、誇れることもしてきたが、悪いこと、できれば忘れてしまいたいようなこともしてきた。よいことを願いながら、必ずしもそれを実行できないのが私たちの現実で、キリスト教が「罪」というとき、この現実を厳しく見つめているのだと思う。
しかし、同時に、私たちはそうしか生きられないのだから、その中で最善の努力をするしかない。努力しても満点にならないことを知りながら。そのことに気づくと、「赦し」を求めずにはいられない。ハイドンの《七言》は、私たちが願い求める「赦し」を、整った、甘美な音楽にして、私たちの眼前(こんな言葉はないが、「耳前」と言うべきか)に現出させる。
今日の礼拝に出て、「十字架上の七つの言葉」や「十字架の道行」の黙想を書いてみたいと思った。

2016年1月9日土曜日

重なりの深さ

1月4日の「朝日俳壇」にあった俳句が心に残った。

一葉づつ重ねて深き落葉かな(仙台市)村上幸次

山深い林を思い浮かべた。雑木林の地面は一面、落ち葉で覆われて、柔らかく、優しく、あの独特の甘い香りに満ちている。
しかし、そこに積もっている落ち葉は、そうなろうとしたわけではない。一葉一葉はただ落ちて来ただけで、その重なりが、今の「深さ」を形成したのだ。
私がすることも同じだと思った。これまでしてきたこと(しなかったこと、できなかったことも)ひとつひとつが重なって、今の私を形づくっている。意識したものもあれば、意識しなかったものもある。しかし、どれも、小さなことだ。
ならば、私がする小さなことを、誠実に、真摯に行って、その重なりの深さを、より柔らかく、優しいものにしたい。そして、重なった落ち葉の下の方は分解され木々の養分となるように、私が関わる人の何か—力か、慰めか、励ましか、喜びか—になるようにしたい。
この俳句に、そんなことを思わされた。

2016年1月6日水曜日

新年を迎えて

遅ればせながら、新年、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

今年は、少しサボっていたことにも力を注ぐことにしたいと思っています。第一弾として、「ヘブライ語聖書を〈読む〉」ブログをできるだけ更新しようと考えています。
よろしければご覧ください。
http://www5.famille.ne.jp/~amdg/tanakh/hblesson.html