映画「ディア・ドクター」を見た。
4年間無医村だったところに、3年半前に医師(笑福亭鶴瓶)が来た。その医者は、「神さま仏さまより、先生が一番頼り」と言われる存在になっている。
映画の前半で医師は「奇跡」を2つ起こす。1つは、息を引き取ったと思われた老人ののどに詰まっていた寿司を取り出し、蘇生させたこと。もう1つは、「緊張性気胸」で危ない状態にあった若者に適切な処置を施したこと。
しかし、最初のものは、臨終と思った医師が老人を抱き上げ、愛情込めて背中をたたいたことから起きた偶然であった。2つ目は、救急での経験が豊かな看護師(余貴美子)の指示に従って、処置をしただけだった。
ところが、これら2つの「奇跡」を目の当たりにした村人たちは「万歳」を叫んで医師を迎え、少し前から来ている研修医(瑛太)はこの医師を尊敬するようになる。
映画の中頃、独り住まいの老婦人(八千草薫)が畑で倒れ、往診に行く。ここから、物語が動き始める。
「貧血の原因となる症状を上げなさい」という医師の質問に、研修医は「消化器系のガン」を筆頭にあげる。最後には「痔」も上げているが、これは、後の医師の対応にヒントを与える。
昼間の往診を取り繕った医師は、夜になって女性を訪ねる。食事を振る舞われながら、大切な話しをする。村を出た娘たち(一番下の娘(井川遥)は医者となっている)に迷惑をかけたくないこと、おそらくガンで亡くなった夫とは同じ看取られ方をしたくないことを女性は語り、医師もそれを受け入れる。
女性の胃カメラ検査をし、生体検査の結果を見た医師は、女性との約束を守るために、医薬品会社の営業(香川照之)を代わりに仕立て、彼の胃潰瘍の胃カメラ写真を撮って、女性の診断を「胃潰瘍」だとする。
女性の娘たちが帰省し、医者になっている娘は母が飲んでいる薬を見て、胃潰瘍の処方がされていることを知る。帰る前に、彼女は医師の診断を確認しに来る。医師も、作り上げてきた「偽」の証拠を見せ、娘を納得させる。
「次に帰省するのはいつか」との医師の問いに、「1年後」と娘が答えたとき、医師は「すぐ帰ってきます」と言い残して、診療所を、村を出て行く。
途中で出会った医薬品会社の営業マンに、「胃ガン」を証明する証拠を委ねて。
医師の失踪は、捜査員を村に呼び込み、医師が無資格であった、「ニセ医者」であったことを暴いていく。
医師は、自分への尊敬を深め、春からこの村で働きたいという研修医(都会の大病院の院長=経営者の息子である)に、自分が「ニセモノ」であり、「資格がない」ことを告白する。しかし、研修医はそれを「資質」、ないし、「行動規範」のこととして聞き、自分の父親を批判する。これを聞いた医師は、それ以上の説明をやめてしまう。
医師が失踪する直接のきっかけになったのは、女性の娘だった。「ホンモノ」の医師が登場したことで、自分が「ニセモノ」であることがばれることを恐れたからというのは、当たっていないと思う。医師はすべての証拠を娘に委ねたのだった。
1年後にしか娘が来ないということは、女性の死に際にしか帰って来ない、それも間に合わないかもしれないということだ。それまで、女性の願いに応えて、一緒に「嘘」をつき、女性を「死なせる」(娘の言葉)ことを考えてきたが、「家族」が実際の存在として登場してきたときに、医師は、「医者」としての判断をしたのだと思う。つまり、できる限りの医療を受けさせ、必要なら延命治療を施すように(女性の夫が治療を受けていた、そして亡くなっていったときのように)、その主導権を娘に手渡したのだ。これは、現在の医療においては、一般的、常識的な判断である。その判断をしてしまったときに、現在の医療制度の「アウトサイダー」である医師は、この村で医師を演じ続けることはできなくなってしまったのだ。
そして、医師に「共犯」を頼んだ女性も、この医師と同じ判断、つまり、娘の勤める病院で診断と治療を受けることを承諾した。
医師は、夜の駅から、実家に電話をかける。認知症が進み、自分のことも認識できない老父に、父の診療用ペンライトを盗んだのは自分だったことを告白する(そのペンライトが父のものであることは、女性にも告白していた)。父への憧れと、医者になりたいという願望を達成できなかった医師が、その思いを述べ、そして、実現できなかったことを受け入れた瞬間だ。そして彼は、医者としてではなく別の方法で、女性の願い、「死なせる」=看取ることを決断する。女性も、自分の願いと約束が反故になっていないことを確信する。映画の最後のシーンを私はこう読みとった。
それにしても、この医師は、力を尽くして、診察し、往診する。そこには、自分の「共犯者」である医薬品会社の営業マンの業績を上げるために、必要でもない薬を処方するという目的もあったろう。しかし、彼がこなしていたのは、医師として求められている働きであるし、それ故に、彼はこの村で頼りにされるようになったのだ。
そして、診療・往診をしていない間は、常に学んでいる。医学部で学んでいないからなのだが、同時に、自分に要求されることに応え続けるためである。ことに女性の願いを聞いてからは「胃ガン」に関する勉強をし続ける。
つまり、「プロ」としての行動規範に則って生活しているのだ。だから、「ニセモノ」だという告白を聞いたときに、研修医はそれを否定した。彼の生活を見る限り、それは「ホンモノ」だったのだから。そして「ホンモノ」だったからこそ、「ホンモノ」の医者である娘は「ニセモノ」の医師を「先生」と呼び、「ホンモノ」の医者であるとはどういうことかを自問する(「あの先生なら、母をどう死なせたのか」。これは、「私はどうすべきか」という問いと同じ質のものであろう)。
捜査に当たる刑事の1人は、この一連の出来事に対する皮肉な見方を代表している。人の命に関わるという「高揚感」(営業マンの言葉)を「オナニー」と切り捨て、「ニセモノ」が「ホンモノ」の振りをしていたことを暴き出す。しかし、その努力によって明らかになったのは、「ニセモノ」が「ホンモノ」であったということだった。あるいは、「ニセモノ」が必死に「ホンモノ」の振りをしているとき、それは、限りなく「ホンモノ」に近づいているということだった。
この出来事の舞台となっている村は、本当に美しい。「現役を引退したらこんなところに住みたい」と思わせるところで、刑事の1人も、そのように言う(件の刑事は、それも「迷惑」と切り捨てる)。しかし、高齢者が「半分」で、「ニセモノ」でもなければ、そして、2,000万円という高額の報酬でもなければ、医者は来ない(これも件の刑事の言葉)ような場所となっているのは事実なのだ。
ところが、そこに住む人々のつながりは何とあたたかく、人々の表情は何と穏やかなことか。「ニセモノ」の医師はそこに自分の居場所を見つけ、そこにうまくはまり込んだ。そして、求められている「機能」を十分に果たした。研修医も、すぐにこの共同体の「先生」になった。棚田の広がる村には、「許容力」があると感じさせる。その「許容力」は、国家試験に象徴される医療制度にはないものだ。
私はアナーキズムを賞賛しているわけでも、精神主義を説きたいわけでもない。しかしながら、制度は硬直化するし、硬直化した制度故にアウトサイダーとならねばならない人々も存在する(過疎化・高齢化の進む村は、かつて社会の基盤であったのに、いまでは厄介者、アウトサイダー扱いされている)。そこに「人間味」が持ち込まれるとき、制度は息を吹き返す。ただ、アウトサイダーが制度と同じ思考・決断をしたとき、自らもその「人間味」を許容することはできなくなった。映画は、その悲劇を描いている。
医療制度をはじめとする日本の社会の問題について、静かに深く掘り下げる映画であるが、それだけでなく、「人間味」と制度の葛藤というさらに深い問題についても考えさせる佳作である。
映画については、公式ホームページを参照。