2009年7月3日金曜日

主の言葉を聞くことのできぬ餓えと渇き

ある授業でのこと、「アモス書に基づく説教を聴いたことがあるか」との問いに、「ある」と応えたのは、20人近くいるクラスのうちわずか3人ほど。表題の言葉を思った(アモス書8:11)。

もちろん、この事態は、説教を聴く側の責任ではない。説教する側、説教のために聖書を読む側の責任である。ヘブライ語聖書は難しい、分かりにくい、だから説教では取り上げない。取り上げるとしても、よく知られた箇所だけにする。こうすると、聴く側は、ヘブライ語聖書は重要でないものと受け止め、読まなくなる。読まなくなるとますます、説教で取り上げることが難しくなる。ヘブライ語聖書を読まない悪循環が働いている。これでは、実質的にマルキオンと同じ立場である(マルキオンは、2世紀、ヘブライ語聖書をキリスト教の「聖書」から取り除くことを主張した)

また、ヘブライ語聖書を取り上げないことは、キリスト教会の現状を端的に表しているように思う。ヘブライ語聖書には、共同体の倫理の他、正義や平和といった問題が直接に取り上げられている(その扱い方の問題については、「ヘブライ語聖書日課を『読む』」で取り上げている)。しかし、日本の社会やその中に生きているキリスト教会は今、このような問題より、「個人の魂の救い」や「癒し」に大きな関心を寄せている。そのこと自体は大切なメッセージであるし、キリスト教は今日の社会に向けて、「心の平安」を伝えなければならないと思う。しかし、それだけでいいのか。

「私」は一人で生きている訳でないし、「私」が今日生きていることは世界とつながっている。「私」が本当に幸せになるためには、共同体や社会、世界の安全・繁栄と無関係ではない(エレミヤ29:7参照)。その間の関連を見つけられないでいる、実感できないでいることが、実は、この社会に生きる私たちが存在を確認できないでいるという問題の根幹にあるのではないか。そのように感じている。

このような状況にあるのに、神の「私」個人への「愛」をことさらに強調することは、私たちの存在そのものを矮小化し、その本質を見失わせかねない。このような方法で「癒し」を語ることは、本当に「救い」を語ることなのか。このような問いが突拍子もないものに聞こえることが、私たちの社会、そして、その社会に生きているキリスト教会の問題を表しているように思えてならない。