2009年7月16日木曜日

ふさわしい/ふさわしくない

チェチリア運動(19世紀にドイツで始まった、典礼と音楽の改革運動)の時代、ハイドンやモーツアルトの教会音楽は、「世俗的過ぎる」と考えられていた。ハイドンやモーツアルトを批判する人たちはグレゴリオ聖歌やパレストリーナを「理想」としていたのだから、当然といえば当然の結論だろう。音楽から察するに、彼らにとって信仰や典礼は、「神秘的」で「厳粛」なものととらえられていたはずだ。これに対して、ハイドンやモーツアルトの音楽は、「開けっぴろげ」で「楽しい」。

「美しいもの」はキリスト教の本質ではないという議論は、かつてもあったし、今もなお、かなりの力を持っている。「質素」であり、「本質的」(つまり「形而上学的」ということか)であることが、キリスト教にとって決定的に重要だという議論である。これはプロテスタントvsカトリックの問題に置き換えられることもあるが、決してそうではあるまい。「美」を巡る評価の問題なのだ。

礼拝においてどのような「付属物」(礼拝堂、音楽、楽器など)が「ふさわしい」ものなのか。審美的な判断は、もちろん、重要である。しかしそれでは、単なる「好き嫌い」という感覚だけが働いてしまうこともある。単純に審美的でなく、神学的に考えられる場合もあるだろう。その場合でも、前提となるある認識が存在しているので、その前提の「是非」を問わない限り、「好き嫌い」と変わらないレベルの問題となってしまう危険性があるし、前提についての省察が行われることはあまりない。従って、そのことについて議論することさえできないというのが、しばしば遭遇する状況である。「ふさわしい/ふさわしくない」というもっともらしい議論も、開き直ってしまえば、みんな「好き嫌い」に基づいているのだ。

今日、カトリック教会の典礼において、モーツァルトの教会音楽は一定の復権を果たした。モーツァルト自身は嘆いていたことであるが、啓蒙主義的な大司教によって典礼の時間が、従って、音楽の演奏にかけられる時間も、制限され、モーツァルトは「短く」教会音楽を作曲しなければならなかった。その結果、彼の作品は、現代の典礼にとっても「適切な」長さとなった。
その分、ハイドンは分が悪い。初期のものを除いて、気前のよい領主が長いミサ曲を許容したから、ハイドンは生前、思う存分、手の込んだミサ曲を作曲することができた。その結果、今日ではかえって、典礼の中で演奏しにくくなってしまっている。何と皮肉なことだろうか。

ハイドン没後200年の今年、改めてその教会音楽を聞いてみると、そこには、大らかで朗らかな信念が響いている。「人生とは素晴らしいものだ」。ハイドンの作品を聞くとその「絶対的肯定」の言葉が聞こえてくるし、それこそ、今日において、キリスト教が語り続けなければならないメッセージであるように思えるのだ。