2009年7月21日火曜日

蓄積、あるいは、間テクスト性

キリスト教には「説教」という営みがある。アメリカでは牧師が"preacher"(「説教する人」)と呼ばれるくらい、牧師の役割において「説教」に対するの比重は大きい(と期待されている)。

しかし、「説教」という訳語がよくないと思う。「教えを説く」、つまり、聖書に記されていることの「正しい解釈」を「説き教える」ものと思われていて、説教者は「教師」となる。
また、この言葉は、いわゆる「お説教」、「訓戒すること。また、堅苦しい教訓的な話」(『広辞苑』)を連想させてしまう。「伝道地」であり、キリスト教徒が絶対的マイノリティーであり続けている日本においては、「説教」とは、キリスト教の教えを(多分に倫理的に)解説し、改宗へと導くものというイメージが定着してしまっている。
そして、最大の問題は、これらのイメージが、キリスト教外部や聞く側からのものだけでなく、「説教する」側の自己認識にもなっている点にある。

あるテクストを基に何か話をするということ自体は、そんなに珍しいことではない。最近読んだ本や最近観た映画の感想なども、同種の営みだと言えるだろう。そこには、新たなテクストとの出会いがあり、それまでに蓄積されてきたテクストとの対話がある。新たなテクストが意味を見出されるだけでなく、古いテクストに対しても新しい意義付けが行われる。
この文脈に「説教」という営みを置いてみると、聖書のテクストと説教者というテクストの間テクスト的出会いがあり、新たなテクストが生み出され、そして、それが聴衆というテクストと出会うという、「連鎖的な間テクスト的読み」が行われていることに気付く。聖書テクストを読む説教者の「独自性」(ユニークな存在であること)に着目すれば、その読みが「絶対」でも「正解」でもないことになる。そうなると、説教で語られるべきは、「連鎖的な間テクスト的読み」の中へと聴衆を招くような内容であり、そして、その「連鎖」がさらに広がっていく(例えば、その「読み」に基づいて、社会や周囲の事柄を「読む」)ような契機を提示することだろう。

「説教」は、極めて間テクスト的な作業であると言えるだろう。そうならば、聖書テクストと対話する他のテクストがどのようなものであるかは、その作業の質を決めることになる。伝統的キリスト教のディスクールだけを相手とするなら、その読みは、新たなものを生み出さないだろう。読みが開かれていくためには、間テクスト的読みの相手となるテクストが蓄積されていかなければならないのだ。説教を語る者と聴く者の双方において。