2009年6月29日月曜日

「わたしたちの……」

 「主の祈り」に関する記述のうち、ルカによる福音書版は、次のような弟子の言葉で始まる。

  主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。(11:1)

 バプテスマのヨハネは弟子たちに、(おそらく)独自の祈りを教えていた。これは、独自の信仰、独自の神観を有していたことを表している。「自分たちの祈り」を持つということは、その基となったグループからの独立を意味する。ヨハネのグループは、その基となったグループ(研究の成果を受け入れれば、エッセネ派)からの独立を、「祈り」によって宣言したのだ。

 イエスの弟子が、そのヨハネ・グループの「ように」、自分たち独自の祈りを持つことを主張した。彼らの基となったグループは(研究の成果を受け入れれば)バプテスマのヨハネ・グループであったとされるが、独自のいのりは、イエス・グループの独立宣言となる。イエスの弟子たちは、自分たちの独自性を主張しようとしたのだ。

 そうなると、祈りの中の「わたしたち」が問題となる。この代名詞は、様々な意味を持ちうる。「わたしたち」は、「彼ら」ではない、つまり、独自の祈りを持つ集団の内部を表しうる。マタイ版の「主の祈り」のように「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるとき、「彼らの」神ではなく、「わたしたちの」、「わたしたちだけの」神が意識されることになる。

 プロテスタント教会において「主の祈り」が今もなお、1880年訳で唱えられることが多いこととも、これは関係している。「呪文」のように、古い言葉で唱えられる祈りは、それを知らない「彼ら」を排除するものとして機能させることができる。そう言えば、古代において、「主の祈り」も「信条」も、信者以外のものが退出した後、信者だけが残っている場面で唱えられたのだった。
 「主の祈り」はしばしば、「世界をつなぐ祈り」と言われるが、実際のところ、分断と排除のために用いられている現実が存在している。

2009年6月23日火曜日

からだとこころ

 自宅最寄り駅の改札に行くには、53段の階段を上らなければならない。もちろん、エスカレーターが着いている。しかし、大きな荷物でも持っていない限り、エスカレーターには乗らないようにしている。健康を意識してというのもあるが、最近、別の効能にも気づいたからだ。
 朝起きる。深夜まで起きていたのがたたって、どうも寝覚めの悪いときもある。それでも、授業は休めないし、校務もある。
 朝食を取ると、少し、力が出て来る。「目が覚めてくる」というのが正しいのかもしれない。そして、駅まで、わずか5分でも歩いているうちに、さらに、体が起きてくる。そして、件の53段を、一段飛ばしで上がる。
 階段の下に着いたときにはまだまだ起きていなかった体が、改札フロアーに着く頃には、けっこうしゃっきりしている。単純だけれど、体を動かせば「こころ」も起きてくるのだと気づいた。毎朝の、何気ない行動だけれど、駅の階段を昇ることには、こんな効能があるのだ。

 こころ(頭も含めて)と体は、こんなにストレートに結びついているらしい。

2009年6月19日金曜日

政治と宗教

ダニエル書5章。ネブカドネツァル(4章までの重要な登場人物)の跡を継いだベルシャツァルの宴会中に、「人間の指」が現れ、不思議な文字を書く。

そもそもこの宴会は、何の会だったのか。機会は何にせよ、エステル記1章を参照すると、政治的安定を図る意図は含まれているように思われる。そして、招かれた人々が「千人」であったことからすると、選抜があった。岡田の言う「包含と排除」の構造を働かせて、ベルシャツァルは政治的な示威行動を行っている。
そこに、先王の最高顧問ダニエルや先王の王妃が出席していなかったことには、さらに別の意図が感じられる。有名な父の跡を継いだ息子は、父の影響から脱していることを、宴会に招くという行動を通して、明らかにしたかったのだ(列王記上16章参照)。

そこにエルサレム神殿から略奪してきた祭具が持ち出される。エルサレムを陥落させ、そこにあった神殿から祭具を奪ってきたのは、他ならぬネブカドネツァルである。ここにも父に対する挑戦が見て取れるが、それを使って、バビロニアの神々をたたえて乾杯を行おうとすることは、エルサレムで礼拝されていた神を自分の支配の構造に組み込もうとする意図がある。
ネブカドネツァルは、2〜4章のエピソードを通じて、ダニエルとその仲間の信じる神を崇めるようになっていた。ベルシャツァルは、その神すらも自分の作り上げる権力構造の一部に——もちろん下位にである——組み入れようとしていた。

ネブカドネツァルを取り込み、同時に自分の地位と影響力を高めてきたダニエルにとって、ベルシャツァルの政策が面白かろうはずはない。不思議な現象の解明を求められて、彼は公然とネブカドネツァルを称賛し、ベルシャツァルを非難する。そして、その言葉どおり、ベルシャツァルは、この出来事のあったまさにその夜殺害されてしまうのだ。事件の陰にダニエルがいたのではないかと疑わせるに充分である。

政治と宗教の言葉は、「政教分離」が建前の現代においても結びついている。政治は、時に、「文化」や「伝統」に対する「尊敬」という、一見反対しがたい表現で語られる。そして、それに対抗するための宗教的な言述も、政治的闘争の意図を隠し持ったものである場合がある。ダニエル書5章は、このようなことばのありように気付かせてくれる。

責任ある/責任を取る

常に責任ある行動をすること。それは、ひとりの人間として求められていることである。しかも、指導的な立場にある人間は、あらゆる場面で「責任ある行動」を求められる。
しかし、どうすれば「責任ある行動」だと言えるのか。これはそんなに簡単なことではない。
事、自身に関する判断なので、容易にぶれ得る。外から見た場合も、人によって判断は異なるので、「説明責任」を果たすことも簡単ではない。甘くしては行けないが、厳しくしすぎると、漱石ではないが、窮屈になって「生きにくい」。

翻って考えさせられるのは、「誰が何をすれば『責任を取る』ことになるのか」ということである。学生が「不祥事」を起こしたとき、学校は「謝罪」しなければならないのか。メンバーの行動故に、所属するグループは「責任を取」らなければならないのか。「自己責任」を強く言うのに、個人がその責を問われるだけでは納得しないという矛盾が、この社会には存在しているように思う。そして、「責任」を負わされるグループや学校の者たちは、社会の「圧力」に屈さざるを得なくさせられている。
恐ろしいのは、その結果、本当の「責任」の所在がうやむやにされることではないか。

「責任」とは何なのか。使えば「問答無用」の空気を作り出せる言葉だけに、よく考え、慎重に使いたい。

2009年6月13日土曜日

裏道

学部本館から事務室のある建物には、2つの道が付いている。そのうちの1つの道は、3つの建物の「裏」の間を通る。
そこは、多くの時間、日が射さず、人通りも少ない。でも、その分、静かで落ち着いていて、何となく「隠れ場所」のよう。私の好きな道の1つである。
今日はよい天気で道の花も木も美しかったので、写真を撮ってみた。

2009年6月7日日曜日

食事の政治性

岡田温司『キリストの身体−−血と肉と愛の傷(中公新書)』に次のような表現を見つけた。

「聖体」とその秘蹟は、それにあずかることのできる者とできない者とを区別するという、包含と排除の構造において、キリスト教の社会的・文化的な統一体(という幻想)をつくりだす政治的な装置として機能するのである。(94ページ)

「化体説」の成立と受容を巡る歴史的議論、さらには、それが「聖体」を描く美術においてどのように表現されているかを述べた行にあるのだが、食事というものの持つ政治性を的確に言い当てている。その政治性が、「聖なる宴」、聖餐においてこそ、最も強く発揮されるということを、私たちは目の当たりにしている。

「包含」だけの食事はあり得ないにしても、極力「排除」の要素を持たない祝いの食事はあり得るだろうし、追い求めなければならないと思う。ことに、「排除」の構造を強く押しだそうとするこの社会においては、自覚的に「包含」の食事を祝う、社会的な、そして、宗教的な意義があると思う。

翻って、私の関わる食事の「包含」性と「排除」性について、省みずにはいられない。ことに、聖餐という食事において、神学的伝統は「排除」性を容認しうるのか。どのように私たちは、私たちの祝う食事を意味づけるのか。聖なる食卓においても、また、プライベートな食卓においても、この問いは、いつも響いている。

2009年6月6日土曜日

ゴルトベルクのヴァリエーション

J・S・バッハ作曲《ゴルトベルク変奏曲》BWV988は大好きな作品。ハープシコード(チェンバロ)、ピアノの演奏の他、ギター、弦楽合奏、金管合奏編曲のCDを持っている。

最近は、カナディアン・ブラスの演奏するCDをよくかける。もちろん、ある時点で世界最高クラスの金管アンサンブルだったことは知っている。他の演奏でも、素晴らしいと思った。しかし、これほどまでに美しい音を鳴らすことができるとは。フレーズは確かで、音程もリズムも正確。しかし、それだけでない。
あたたかく、柔らかな発音で、美しくハーモニーを響かせる。そして、より対位法的な扱いのされている部分に来ると、チューバですら、旋律的な演奏をやってのける。

アリア(サラバンドか?)の典雅なリズム感は、あたたかなハーモニーに包まれる。続く第1変奏は、打って変わって、歯切れのよいリズム。第16変奏の序曲は、付点のリズムにのって、全声部が新しい始まりを告げる。コードリベット(第30変奏)は、2つのメロディーが絡み合いながら、確かな足取りで進んで行く。

編曲も金管をよく知ったものなのだろうが、演奏者たちも、この曲の姿を知り尽くしている。

2009年6月5日金曜日

よく歌う人は倍祈っている

賛美歌「ナザレの村里」(『讃美歌21』287)の基になった合唱曲を聴く。ボルトニャンスキー作曲で、テルシュティーゲンの詞が配されている。
(NMLで聴くことができる。ここから
男声合唱(無伴奏)で、礼拝で歌われるときよりは随分たっぷりとしたテンポ。ブレスも揃い、表現も各パートの間にズレがない。ハーモニーはしっかりと響き、男声合唱特有の「厚み」が心地よい。

このような音楽は「耳で聞く」というより、「胸に響く」と言うべきか。人声のみで演奏されるとき、音楽はより純粋に、崇高に響き、そのまま聴き手の「からだ」を揺すぶる。「歌は祈り」と言われるが、それは、精神のみでなく、「からだ」をも含む全人的な祈りとなる。だから、アウグスティヌスは、表題の言葉を語ったのだろう。