主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。(11:1)
バプテスマのヨハネは弟子たちに、(おそらく)独自の祈りを教えていた。これは、独自の信仰、独自の神観を有していたことを表している。「自分たちの祈り」を持つということは、その基となったグループからの独立を意味する。ヨハネのグループは、その基となったグループ(研究の成果を受け入れれば、エッセネ派)からの独立を、「祈り」によって宣言したのだ。
イエスの弟子が、そのヨハネ・グループの「ように」、自分たち独自の祈りを持つことを主張した。彼らの基となったグループは(研究の成果を受け入れれば)バプテスマのヨハネ・グループであったとされるが、独自のいのりは、イエス・グループの独立宣言となる。イエスの弟子たちは、自分たちの独自性を主張しようとしたのだ。
そうなると、祈りの中の「わたしたち」が問題となる。この代名詞は、様々な意味を持ちうる。「わたしたち」は、「彼ら」ではない、つまり、独自の祈りを持つ集団の内部を表しうる。マタイ版の「主の祈り」のように「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるとき、「彼らの」神ではなく、「わたしたちの」、「わたしたちだけの」神が意識されることになる。
プロテスタント教会において「主の祈り」が今もなお、1880年訳で唱えられることが多いこととも、これは関係している。「呪文」のように、古い言葉で唱えられる祈りは、それを知らない「彼ら」を排除するものとして機能させることができる。そう言えば、古代において、「主の祈り」も「信条」も、信者以外のものが退出した後、信者だけが残っている場面で唱えられたのだった。
「主の祈り」はしばしば、「世界をつなぐ祈り」と言われるが、実際のところ、分断と排除のために用いられている現実が存在している。