「聖体」とその秘蹟は、それにあずかることのできる者とできない者とを区別するという、包含と排除の構造において、キリスト教の社会的・文化的な統一体(という幻想)をつくりだす政治的な装置として機能するのである。(94ページ)
「化体説」の成立と受容を巡る歴史的議論、さらには、それが「聖体」を描く美術においてどのように表現されているかを述べた行にあるのだが、食事というものの持つ政治性を的確に言い当てている。その政治性が、「聖なる宴」、聖餐においてこそ、最も強く発揮されるということを、私たちは目の当たりにしている。
「包含」だけの食事はあり得ないにしても、極力「排除」の要素を持たない祝いの食事はあり得るだろうし、追い求めなければならないと思う。ことに、「排除」の構造を強く押しだそうとするこの社会においては、自覚的に「包含」の食事を祝う、社会的な、そして、宗教的な意義があると思う。
翻って、私の関わる食事の「包含」性と「排除」性について、省みずにはいられない。ことに、聖餐という食事において、神学的伝統は「排除」性を容認しうるのか。どのように私たちは、私たちの祝う食事を意味づけるのか。聖なる食卓においても、また、プライベートな食卓においても、この問いは、いつも響いている。