そもそもこの宴会は、何の会だったのか。機会は何にせよ、エステル記1章を参照すると、政治的安定を図る意図は含まれているように思われる。そして、招かれた人々が「千人」であったことからすると、選抜があった。岡田の言う「包含と排除」の構造を働かせて、ベルシャツァルは政治的な示威行動を行っている。
そこに、先王の最高顧問ダニエルや先王の王妃が出席していなかったことには、さらに別の意図が感じられる。有名な父の跡を継いだ息子は、父の影響から脱していることを、宴会に招くという行動を通して、明らかにしたかったのだ(列王記上16章参照)。
そこにエルサレム神殿から略奪してきた祭具が持ち出される。エルサレムを陥落させ、そこにあった神殿から祭具を奪ってきたのは、他ならぬネブカドネツァルである。ここにも父に対する挑戦が見て取れるが、それを使って、バビロニアの神々をたたえて乾杯を行おうとすることは、エルサレムで礼拝されていた神を自分の支配の構造に組み込もうとする意図がある。
ネブカドネツァルは、2〜4章のエピソードを通じて、ダニエルとその仲間の信じる神を崇めるようになっていた。ベルシャツァルは、その神すらも自分の作り上げる権力構造の一部に——もちろん下位にである——組み入れようとしていた。
ネブカドネツァルを取り込み、同時に自分の地位と影響力を高めてきたダニエルにとって、ベルシャツァルの政策が面白かろうはずはない。不思議な現象の解明を求められて、彼は公然とネブカドネツァルを称賛し、ベルシャツァルを非難する。そして、その言葉どおり、ベルシャツァルは、この出来事のあったまさにその夜殺害されてしまうのだ。事件の陰にダニエルがいたのではないかと疑わせるに充分である。
政治と宗教の言葉は、「政教分離」が建前の現代においても結びついている。政治は、時に、「文化」や「伝統」に対する「尊敬」という、一見反対しがたい表現で語られる。そして、それに対抗するための宗教的な言述も、政治的闘争の意図を隠し持ったものである場合がある。ダニエル書5章は、このようなことばのありように気付かせてくれる。