2009年6月19日金曜日

責任ある/責任を取る

常に責任ある行動をすること。それは、ひとりの人間として求められていることである。しかも、指導的な立場にある人間は、あらゆる場面で「責任ある行動」を求められる。
しかし、どうすれば「責任ある行動」だと言えるのか。これはそんなに簡単なことではない。
事、自身に関する判断なので、容易にぶれ得る。外から見た場合も、人によって判断は異なるので、「説明責任」を果たすことも簡単ではない。甘くしては行けないが、厳しくしすぎると、漱石ではないが、窮屈になって「生きにくい」。

翻って考えさせられるのは、「誰が何をすれば『責任を取る』ことになるのか」ということである。学生が「不祥事」を起こしたとき、学校は「謝罪」しなければならないのか。メンバーの行動故に、所属するグループは「責任を取」らなければならないのか。「自己責任」を強く言うのに、個人がその責を問われるだけでは納得しないという矛盾が、この社会には存在しているように思う。そして、「責任」を負わされるグループや学校の者たちは、社会の「圧力」に屈さざるを得なくさせられている。
恐ろしいのは、その結果、本当の「責任」の所在がうやむやにされることではないか。

「責任」とは何なのか。使えば「問答無用」の空気を作り出せる言葉だけに、よく考え、慎重に使いたい。