2009年12月28日月曜日

危険かもしれない

完全に休日(年末年始)モードに入ってしまい、ごろごろと転がってテレビを見ていた。

「ガリレオ」(フジテレビ系列)が特別番組で放映される「番宣」で、「ガリレオからの挑戦」なる番組をしていた。内容は、「実験」で、「太陽光はどんなものを燃やすことができるのか」「砂風呂に10人一度に入ることはできるのか」「レーザー光線で盗聴できるのか」などを実験していた。
中でも、太陽光については、フランス南部の研究所まで出向き、最初は肉を「燃やし」、次に金を溶かし、ダイヤモンドを燃やす実験を行っていた。この研究所には、「国家機密」の部分もあるとのこと。

太陽光の利用については、日本でも計画があるらしく、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発している(詳しくはJAXAホームページを参照)。静止軌道上に設置された人工衛星で太陽エネルギーを集め、発電したり、エネルギーのまま、レーザー光線にして地上に送るという。枯渇しないエネルギーを効率よく利用する画期的な方法だろう。

しかし、フランスの研究所が「国家機密」を持っているように、この種の技術は軍事転用が容易である。いや、「転用」どころか、むしろ、軍事利用という目的が先にあってもおかしくない技術である。計画そのものに、宇宙で集めた太陽エネルギーを正確に地上に転送する技術が必要とされるのだから、それは、そのエネルギーをピンポイントで「目標」に「当てる」ことを可能にする。「杞憂」と思われるかもしれないが、頭上からいつでも照準を合わされている状態を生み出すのだ。

「レーザー光線による盗聴」も、すでにKGBが利用していたという噂があるという。「技術の進歩」を単純に歓迎できない要素がここにもある。利用方法に制限をかける条約や監視体制も一定の抑止力たり得るだろうが、「一定」でしか有効でないのは、核不拡散条約やIAEAを見ても明らかだろう。技術の開発と同時に、懸念を払拭できる「枠組」が求められていると思う。

2009年12月26日土曜日

シュッツ《クリスマス物語》


穏やかで、美しい演奏。
この後、クリスマスの物語が絵巻物のように繰り広げられる。

2009年12月25日金曜日

Wonderful Counsellor

イザヤ書9:5の欽定訳による訳語。ヘンデル作曲《メサイア》の歌詞でよく知られる。
この"counsel(l)or"という言葉を「カウンセラー」のことだとする解釈を聞くようになった。ここで預言されているイエス・キリストは、「驚くべきカウンセラー」であり、私たちに寄り添って、私たちが自分で問題を解決し、前進できるようにしてくださる方なのだ、というような解釈である。これは、カウンセリングという働きが認められてきた証拠であろうし、カウンセラー的な働きに対して期待が高いことを表しているのであろう。

ところが、ヘブライ語のyô‘ētsの原義からすると、この解釈はかなりの「飛躍」を含んでいると言わざるを得ない。
他の箇所でのこの語を見ると、「(ダビデの)顧問」(サムエル記下15:2)、「参議官」(エズラ記4:5)という訳語が当てられている。同じイザヤ書でも「参議」と訳されている(1:26、3:3、19:11)。つまり、王の政策に助言を与える「廷臣」のことである。
英語の"counsellor"も、「カウンセラー」がポピュラーになるまでは、「参議・顧問」という意味の方が主であった。

実は、この箇所は、原文の解釈が難しい。
Koeler & Baumgartnerが編纂した辞書では、この部分を

“who gave marvellous advice” or “a marvel of a counsellor”

と解釈している。また、アメリカのユダヤ教の翻訳Tanakhでは、

"The Mighty God is planning grace; The Eternal Father, a peaceable ruler”

と訳している。これらの解釈に従えば、ヤハウェの「参議」として通常の方法とは異なる統治をする、そのような存在として描かれていると言うことができるだろう。しかも、前後の文脈を見ると、この「男の子」は、戦争に勝利して即位することがうかがわれる(2〜4節。詩編2:7参照)。現代で言う「カウンセラー」のイメージを読みとることは、少なくともヘブライ語聖書からは難しいと言わざるを得ない。

とするなら、イエスを「カウンセラー」とする解釈は、ヘブライ語聖書の「預言」が「実現」したと言いながら、ヘブライ語聖書からは離れていることになる。ヘブライ語聖書と新約聖書、そして、現代の読者の間にある「ギャップ」は、読みを豊かにするものである。このことを認めた上で、どれくらい「本文」に固着するか、それからどれくらい自由になるか、それは解釈者にとって常に大きな課題であることを認識していたい。

2009年12月5日土曜日

普天間の代替地

必ずしも発言通りではないようだが、橋下大阪府知事が、普天間基地での平時訓練を関空や神戸空港に移すことについて、「『議論する』ことは否定しない」旨発言したらしい。

歯に衣着せぬ発言の多い人だけに、最初は驚いたが、よく考えてみると、「沖縄の負担を軽減する」とはこういうことである。「安全だ」「大丈夫だ」というのなら、大都会に近いところで行っても不都合はないはずだ。自分の住んでいるところに近いところに米軍基地があるのが困るのなら、沖縄の人々はもっとひどい目に、ずっと遭っているのだということに思い至らなければならない、と思う。

普天間を国外ないしは県外に移転したとしても、それは、最終的なゴールではない。根本的な解決は、日米安保条約の見直しを待たなければならない。最終目的をどう立て、どのような戦略を立て、どのような段階を踏んでいくのか。60年来の課題に取り組まなければならない。

2009年11月13日金曜日

「キリスト教は排他的」

某党の幹事長の発言だが……。

これは、仏教(高野山真言宗)に対する 「リップサービス」として言われたものだ。それが、問題である。何かを持ち上げるのに他のものを批判するというのは、上等なやり方ではないと思う。

「キリスト教」と並んで「イスラム」が言及されたのは、現在、各地で、ことにアフガニスタンで行われている紛争がこの両者の「宗教的」争いであるとの認識に立ったものでもあろう。私は、この認識には組みしない。問題は宗教にあるのではなく、政治と経済にあるのだ。宗教が問題だとするのは、世界の政治的枠組、経済的枠組に対する免罪となりかねない。

しかし、翻って、キリスト教について自ら検討してみると、表層の部分での言葉の意味では、その通りだとも思う。
キリスト教は「救い」という看板を掲げ、「救われた者」と「救われていない者」を区別するが故に、その本質において、排他的な一面を持ち合わせている。「共同の食卓に加わる資格があるのは誰か」ということを議論していること自体、この排他性を証明していると思われる。
一方でキリスト教信仰においては、唯一の神が「全知全能」で「善」であり、すべての人を「愛している」と言う。その一方で、「救われている者」と「救われていない者」の区別を行う。これは、絶対的な論理矛盾である。多くのキリスト教徒はこのことに気づいていないばかりか、自分が「救われた者」に入っていることで満足している。これでは、キリスト教が「排他的」と言われても仕方ないと思う。

私は相変わらず、この社会において、キリスト教を含む宗教には果たすべき役割があると思っている。さまざまな課題に、宗教の側がアプローチしなければならないと思う。しかし、既成宗教がその課題を真剣に受け止めるなら、その体質を改善する必要もあると思う。「より包括的な」キリスト教のあり方が、今日、大きな課題であると感じている。

2009年10月16日金曜日

ナンバーワンよりオンリーワン……でいいの?

タイトルは、本田哲郎神父が来学して、合同チャペルでお話しくださった際のもの。その内容は、私が聞き取ったところでは、かなりおおざっぱな要約だが、次のようなものだった。

SMAPの「世界で一つだけの花」という歌や、金子みすゞの「みんな違って、みんないい」という詩を、最初は、キリストの福音と通じるものとして受け止めていたが、段々と違和感を抱くようになった。大きな花を咲かせている人もいれば、小さな花しか咲かせられない人がある。「みんな違って、みんないい」と言っているだけでは、すれ違うだけで、平和や一致はない。最も小さな花しか咲かせられないようにされた人々の思いに意識的につながることで、はじめて、平和を実現することができる。

穏やかな語り口で、大切なメッセージを伝えてくださったが、聞きながら、私はちょっと違うことを考えていた。

「ナンバーワンよりオンリーワン」という歌に込められたメッセージに共感しているのは、自分が「小さな花」だと感じている人であろう。そして、この歌(とそのメッセージ)がこれほど受け入れられるのは、多くの人が、自分は「小さい」と感じている証拠であろう。そして、そう感じている人にとって、「それぞれ、そのままでいい」、「オンリーワンになればいい」という言葉は、慰めをもたらすものであることは間違いないし、その慰めは語られなければならないとも思う。
しかしながら、現在の社会においては、「ナンバーワンよりオンリーワン」を言うことの危険性もあると思う。それは、「諦め」を促す言葉になりかねない。「それぞれがそのままでいいのだから、今の自分で満足しましょう」というように。「吾唯知足」というのは、心の平安のためにどうしても到達しなければならない境地だと思う。しかし同時に、それが「今の自分で満足しよう」というメッセージになってしまうなら、変化は起こり得ず、自ら「差」を固定化してしまうことになる。さらには、誰か他の者、とくに力ある者が言う場合、それは、不正や不平等を固定化するための方策になってしまう。これでは、「慰め」のふりをして「絶望」を語ることになりかねない。

もう一つの問題は、本田神父も指摘しているように、このメッセージへの共感が、極めて「内向き」なことである。関心は「自分」にしかない。「自分はオンリーワンである」ということを聞いて、安心し、慰められる。しかし、そこまでである。同じように感じている人に、「あなたはオンリーワンです」と伝えることにはつながらない。この2つの間には、大きな隔たりがあるように思う。

SMAPや、作曲者である槇原敬之がこのうたを歌うときは、大変感動的だが、その受容に違和感を抱いていたのは、こういうことだったのだと思い至った。
私たちの一人一人が「オンリーワン」であることは、キリスト教の観点からすると、「自明のこと」である。その「自明のこと」を確認しなければならない、確認したいという人がこれほど多くいるという状態に社会があることは、大問題だと思う。しかし、それが確認で終わるなら、いっそう問題であろう。
「オンリーワン」であることは極まっているのだから、どんな「オンリーワン」でありたいと願うのか。そのことで、私は誰と、どうやってつながって生きていくのか。「オンリーワンなのだから」から始まる次のセンテンスがあって、はじめて、このメッセージは人を生かすものになると思う。

「慰めの言葉」が実は「絶望」を語っていたということにならないために、耳に心地よい言葉には注意しなければならないと感じた。

2009年10月6日火曜日

耳栓

最寄り駅から学校までバスに乗る(本当は歩いた方がいいのだけれど)。学校まで行くバスに乗ると、とくに、通学の学生が多い時間だと、バス停にいる案内係の人が、詰め合わせて乗るように促す。しかし、学生たちはその声に耳を貸さない。多くの学生は、イヤフォンをして音楽を聞いているから、その声を耳にしてすらいない。

私も、移動中に、イヤフォンをして音楽を聴くことがある。インイヤー式の上に、ウレタンフォームでぴったりと耳をふさぐもの。実質的に「耳栓」だ。
すると、周囲のことに注意が行かなくなる。車も歩行者も、列車や飛行機に同乗している人も、ぼんやりとしか認識できないようになる。ただ耳を塞いで、周囲の音を聞かないようにしているだけではない。その周囲とは関係のない音楽に意識を集中させているから、孤立した世界に入り込んでいるようなものだ。実際は、現実の(交通の、人混みの)ただ中にいるというのに。

青池保子のマンガ『エロイカより愛をこめて』の中に、「心の耳栓」という秀逸な表現があった。音声を聞くことは聞くのだが、その意味するところを受け入れるつもりもないし、それを語る相手に同意するつもりもない、そういう心の状態を前もってつくり出すことを語っていた。
「イヤフォン=耳栓」は「心に耳栓をした状態」つくり出すのだが、そういうものがなくても「心の耳栓」を用意している瞬間があると感じる。「聞かなくても分かっている」「聞いたって、同じことだ」という思い込みが、「心の耳栓」の正体だろう。もちろん、「先入見」なしに物事を受け止めることはできないし、「予断」なしに物事を判断することはできない。「心の耳栓」は、さらに、聞かない、理解しない、受け止めないという姿勢をまとっているのだ。

イヤフォンも「心の耳栓」も、時には必要なことがある。しかし、いつもしていては、私は本当に周囲から孤立してしまう。孤独を求めるのならいいのだが、周囲と関わらない状態を自らつくり出しながら、同時につながりを求めようとするのだから、心の動きというのは不思議なものだと思う。

2009年9月8日火曜日

映画『20世紀少年〈最終章〉ぼくらの旗』レヴュー

映画の内容について「ネタバレ」があります。

なぜか、最終章を広島で観た(ちなみに、第1章は帯広で観た)。第2章を観ていないせいか、それとも、原作との違いのせいか、もうひとつ「面白かった!」とは思えなかった。映画としては、よく作られてあると思うのだが。 万丈目の最期、「いい者」になり方は、原作よりも「現実的」だった。"ともだち"の正体については、原作では突如言及される「カツマタくん」がフクベエ振りをしていたと説明していた。これは、原作の巻き起こした疑問に答えたような形だと思った(第2章を観たら、この関連は溶けるのかもしれない)。結果、原作を読み終える度に感じる、胸を締め付けられるような思いはなく、単に終わった」という印象だった。
ちなみに、"ともだち"(原作では「フクベエ」死後の"ともだち")の正体は、原作では「解決」していない。ケンヂの「〜だろ」という疑問が書かれているだけで、“Yes”も“No”もない。「未解決」のまま、物語は終わるのだ。
原作のすごいところは、過去の出来事を複数の視点から描いている点にあると思う。つまり、あらゆる情報を1人が知り、その「正解」を知ることがこのマンガを読む「目的」ないし「到達点」ではないということだ。「複数の視点」を保証する装置が、「ともだちランド」の「ヴァーチャルアトラクション」である。

ケンヂが、ヴァーチャルアトラクションの中でお面の少年に謝ったとしても、既に起こされてしまった現実を変えることはできない(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は過去に遡って現実を変えるのだが)。それでもケンヂが最後にアトラクションに入って謝るのは、現実に起きたことへの謝罪の意味があったのだろう。原作でケンヂが最後に口にする「いろいろあるけど、がんばれよ」という言葉は、中学2年時の(アトラクションの中の)ケンヂに言ったというより、自分自身に向けて語ったものだろう。過去に自分が犯した小さな罪が現実の世界をこんなにも変えてしまったという、信じられないような現実を受け入れ、そこから未来に向かって歩むことの辛さを語っているように思える。それに比べると、映画最後でのヴァーチャルアトラクションの場面は、「過去の罪を正した」という印象の方が強かった。

映画にしても、原作にしても、私たちの判断、そして、その判断に基づく行動が「世界を変える」というテーマで共通している。"ともだち"のような「人類の滅亡」を引き起こす決断でなくとも、私たちの、それも小さな決断と行動は、現実に「世界を変える」。そして、誰もが、「やり直したい」と思うあのときの決断と行動を持っているのだ。ケンヂの場合、それは、バッヂの万引きについての告白であり、それをせずには(正確には、ヴァーチャルアトラクションの中のケンヂにさせずには)いられなかった。それを告げるべき相手は、現実では、もう既に生きてはいないのだから。
私たちの判断と行動が「世界を変える」という事実に臆病になってはならないが、無頓着であってもならない。限界のある私たちは間違うこともあるし、失敗することもある。それでも判断し、行動し続けなければならない。この「責任」を負って生き続けるには、ケンヂの言うように「頑張る」しかないのだ。

♪グ〜タララ ス〜ダララの歌は、映画でも、大変重要な役割をしていた。
原作では、万博会場のフェスティバルで、ケンヂはこの歌を歌わない。直前に死んだ"ともだち"=「カツマタくん」への贖罪の意味を込めてのことであろうと思う。映画では、ケンヂが歌い、集った人々も歌う。これが希望の歌であり、それを共に歌うことで、新しい時代の到来を描きたかったのだろう。
この歌の歌う、ごくありふれた日常を守り、続けていくこと。「人類滅亡」という未曾有の危機にあっても、その生活を守ろうとすること、それこそが、「正しいこと」なのだ。「より大きな正義」「より高次の目標」(例えば、「宇宙と一つになる」)には、用心して対さなければならない。それが、この歌のメッセージのように思う(原作でも後半、「普通に生きる」ことが強調されていた)。そして、ありふれた日常を守り、続けることを、判断と行動の基準にしたいと、『20世紀少年』を読み、観る者に感じさせる。

マンガ『20世紀少年』は、政治、宗教をはじめとする「大きな物語」、個人の生という「小さな物語」の両方について、そして、この2つの関わりについて、さまざまな考察を促す佳編である。映画も、差異はあるにしても、原作の大切な部分を受け継いでいると思う。「大きな物語」が「小さな物語」の上位にあるかのように思われている現実の社会において、読まれ、観られる価値がある。

2009年8月6日木曜日

天変斯止嵐后晴(てんぺすと あらしのちはれ)

国立文楽劇場夏の公演の夜の部。新作。千秋楽に聴きに行ってきた。

名前の通り、シェイクスピアの最晩年の傑作『テンペスト』の翻案。新作としてはよくできていた、というのが、正直な感想。とくに、呂勢大夫の語った「第四 森の中」と「第五 元の窟の中」は、詞章といい、節といい、立派な浄瑠璃だったと思う。この作者・作曲者コンビの力量はすごいと感じた。「美登里のくどき(女性登場人物の長い独白)」や「左衛門物語り(男性登場人物の長い独白)」があって、劇的な緊張感が高まる。
しかし、それに比べると、「第六 元の森の中」と「第七 元の窟の中」は、平板との感を免れない。その結果、最後の「ゆるし」(作曲者、鶴澤清治による、この芝居の勘所)も、カタルシスには至らない。
また、「自由」とか「解放」というような言葉が文語体、七五調の中に出て来ると、どうしても違和感を抱く。これを他の表現で置き換えることはできないだろうか。
最後に左衛門が観客に語りかけるのは、シェイクスピア劇を踏まえたものだが、せっかく萬歳と祝言が付けられているので、浄瑠璃としてはどうもちぐはぐなように感じた。

浄瑠璃として弱い部分があるように感じたのだが、どうしてだか、その理由を考えてみた。
  1. 人が死なない。シェイクスピア喜劇を元にしているのだから当然だといえば当然なのだが(シェイクスピア当時の作劇作法によれば、人が死ねば、喜劇にならない)、時代物の様相なのに人が死なないと、浄瑠璃らしくない。犠牲となって命を捨てることも、勘違い/行き違いで死に至ることもない。ニセ首の首実検もない。
  2. 母・婆・乳母の存在がない。女性登場人物は、娘一人である。女性たちの「覚悟」や「情愛」が、時代物では大きな役割を果たすのに、娘だけが登場して、深まらない。

この作品の持つ力を伸ばして、度々上演される作品にするために、次のようなことをしてはどうかと考えた。まず、現行曲に加筆して、時代物らしい構成を、いっそうはっきりさせる。
  • 「序」を付けて、左衛門父娘が阿蘇を追われる顛末を描く。序段には、現行「第五」にある阿蘇左衛門物語に含まれている内容を描く。
  • 現行の「第五」と「第六」を入れ替える。
  • 五段目に相当する部分を加え、茶坊主珍才と泥亀丸を置き去りにして、一行が船出する様子を描く。珍才と泥亀丸は「島の主」になるので喜ぶだろうが、それを「正しい者が元の地位に復する」という、時代物の大団円としてはどうだろう(「俊寛」の鏡像)。
こうすると、全体の構成が次のようになる。
  序 段 阿蘇城内の段
      船出の段
  二段目 道行「嵐」(現行「第一 暴風雨」)
      方術の段(現行「第二 窟の中」)
      浜辺の段(現行「第三 浜辺」)
  三段目 森の中の段(現行「第四 森の中」)
      怪鳥の段(現行「第六 元の森の中」)
  四段目 阿蘇左衛門物語の段(現行「第五 元の窟の中」)
      再会の段(現行「第七 元の窟の中」)
  五段目 船出の段

内容的には、次のようなものを加えてはどうだろう。
  • 新序の切りで、美登里の母(または乳母)あるいは「婆」(阿蘇左衛門の伯母?)の死を描く。ここに、「犠牲としての死」の機能を持たせる。
  • 上の「死」に対比させる意味でも、新四段目の切りで、春太郎のニセ首を、筑紫大領に首実検させる(現行「第五」の中で、阿蘇左衛門が春太郎の首を峰打ちする場面があるので、それを活かす)。これをもって、筑紫大領や刑部景隆に前非を悔いさせる(「もどり」)。
素人の勝手な考えだが、こうすると、現行のうち、素晴らしい「第四」「第五」も生きると思うのだが、どうだろう。

2009年7月28日火曜日

映画「ディア・ドクター」レヴュー

※映画の内容について触れており、「ネタバレ」があります。

映画「ディア・ドクター」を見た。

4年間無医村だったところに、3年半前に医師(笑福亭鶴瓶)が来た。その医者は、「神さま仏さまより、先生が一番頼り」と言われる存在になっている。
映画の前半で医師は「奇跡」を2つ起こす。1つは、息を引き取ったと思われた老人ののどに詰まっていた寿司を取り出し、蘇生させたこと。もう1つは、「緊張性気胸」で危ない状態にあった若者に適切な処置を施したこと。
しかし、最初のものは、臨終と思った医師が老人を抱き上げ、愛情込めて背中をたたいたことから起きた偶然であった。2つ目は、救急での経験が豊かな看護師(余貴美子)の指示に従って、処置をしただけだった。
ところが、これら2つの「奇跡」を目の当たりにした村人たちは「万歳」を叫んで医師を迎え、少し前から来ている研修医(瑛太)はこの医師を尊敬するようになる。

映画の中頃、独り住まいの老婦人(八千草薫)が畑で倒れ、往診に行く。ここから、物語が動き始める。
「貧血の原因となる症状を上げなさい」という医師の質問に、研修医は「消化器系のガン」を筆頭にあげる。最後には「痔」も上げているが、これは、後の医師の対応にヒントを与える。
昼間の往診を取り繕った医師は、夜になって女性を訪ねる。食事を振る舞われながら、大切な話しをする。村を出た娘たち(一番下の娘(井川遥)は医者となっている)に迷惑をかけたくないこと、おそらくガンで亡くなった夫とは同じ看取られ方をしたくないことを女性は語り、医師もそれを受け入れる。
女性の胃カメラ検査をし、生体検査の結果を見た医師は、女性との約束を守るために、医薬品会社の営業(香川照之)を代わりに仕立て、彼の胃潰瘍の胃カメラ写真を撮って、女性の診断を「胃潰瘍」だとする。

女性の娘たちが帰省し、医者になっている娘は母が飲んでいる薬を見て、胃潰瘍の処方がされていることを知る。帰る前に、彼女は医師の診断を確認しに来る。医師も、作り上げてきた「偽」の証拠を見せ、娘を納得させる。
「次に帰省するのはいつか」との医師の問いに、「1年後」と娘が答えたとき、医師は「すぐ帰ってきます」と言い残して、診療所を、村を出て行く。
途中で出会った医薬品会社の営業マンに、「胃ガン」を証明する証拠を委ねて。

医師の失踪は、捜査員を村に呼び込み、医師が無資格であった、「ニセ医者」であったことを暴いていく。

医師は、自分への尊敬を深め、春からこの村で働きたいという研修医(都会の大病院の院長=経営者の息子である)に、自分が「ニセモノ」であり、「資格がない」ことを告白する。しかし、研修医はそれを「資質」、ないし、「行動規範」のこととして聞き、自分の父親を批判する。これを聞いた医師は、それ以上の説明をやめてしまう。

医師が失踪する直接のきっかけになったのは、女性の娘だった。「ホンモノ」の医師が登場したことで、自分が「ニセモノ」であることがばれることを恐れたからというのは、当たっていないと思う。医師はすべての証拠を娘に委ねたのだった。
1年後にしか娘が来ないということは、女性の死に際にしか帰って来ない、それも間に合わないかもしれないということだ。それまで、女性の願いに応えて、一緒に「嘘」をつき、女性を「死なせる」(娘の言葉)ことを考えてきたが、「家族」が実際の存在として登場してきたときに、医師は、「医者」としての判断をしたのだと思う。つまり、できる限りの医療を受けさせ、必要なら延命治療を施すように(女性の夫が治療を受けていた、そして亡くなっていったときのように)、その主導権を娘に手渡したのだ。これは、現在の医療においては、一般的、常識的な判断である。その判断をしてしまったときに、現在の医療制度の「アウトサイダー」である医師は、この村で医師を演じ続けることはできなくなってしまったのだ。
そして、医師に「共犯」を頼んだ女性も、この医師と同じ判断、つまり、娘の勤める病院で診断と治療を受けることを承諾した。

医師は、夜の駅から、実家に電話をかける。認知症が進み、自分のことも認識できない老父に、父の診療用ペンライトを盗んだのは自分だったことを告白する(そのペンライトが父のものであることは、女性にも告白していた)。父への憧れと、医者になりたいという願望を達成できなかった医師が、その思いを述べ、そして、実現できなかったことを受け入れた瞬間だ。そして彼は、医者としてではなく別の方法で、女性の願い、「死なせる」=看取ることを決断する。女性も、自分の願いと約束が反故になっていないことを確信する。映画の最後のシーンを私はこう読みとった。

それにしても、この医師は、力を尽くして、診察し、往診する。そこには、自分の「共犯者」である医薬品会社の営業マンの業績を上げるために、必要でもない薬を処方するという目的もあったろう。しかし、彼がこなしていたのは、医師として求められている働きであるし、それ故に、彼はこの村で頼りにされるようになったのだ。
そして、診療・往診をしていない間は、常に学んでいる。医学部で学んでいないからなのだが、同時に、自分に要求されることに応え続けるためである。ことに女性の願いを聞いてからは「胃ガン」に関する勉強をし続ける。
つまり、「プロ」としての行動規範に則って生活しているのだ。だから、「ニセモノ」だという告白を聞いたときに、研修医はそれを否定した。彼の生活を見る限り、それは「ホンモノ」だったのだから。そして「ホンモノ」だったからこそ、「ホンモノ」の医者である娘は「ニセモノ」の医師を「先生」と呼び、「ホンモノ」の医者であるとはどういうことかを自問する(「あの先生なら、母をどう死なせたのか」。これは、「私はどうすべきか」という問いと同じ質のものであろう)。

捜査に当たる刑事の1人は、この一連の出来事に対する皮肉な見方を代表している。人の命に関わるという「高揚感」(営業マンの言葉)を「オナニー」と切り捨て、「ニセモノ」が「ホンモノ」の振りをしていたことを暴き出す。しかし、その努力によって明らかになったのは、「ニセモノ」が「ホンモノ」であったということだった。あるいは、「ニセモノ」が必死に「ホンモノ」の振りをしているとき、それは、限りなく「ホンモノ」に近づいているということだった。

この出来事の舞台となっている村は、本当に美しい。「現役を引退したらこんなところに住みたい」と思わせるところで、刑事の1人も、そのように言う(件の刑事は、それも「迷惑」と切り捨てる)。しかし、高齢者が「半分」で、「ニセモノ」でもなければ、そして、2,000万円という高額の報酬でもなければ、医者は来ない(これも件の刑事の言葉)ような場所となっているのは事実なのだ。
ところが、そこに住む人々のつながりは何とあたたかく、人々の表情は何と穏やかなことか。「ニセモノ」の医師はそこに自分の居場所を見つけ、そこにうまくはまり込んだ。そして、求められている「機能」を十分に果たした。研修医も、すぐにこの共同体の「先生」になった。棚田の広がる村には、「許容力」があると感じさせる。その「許容力」は、国家試験に象徴される医療制度にはないものだ。

私はアナーキズムを賞賛しているわけでも、精神主義を説きたいわけでもない。しかしながら、制度は硬直化するし、硬直化した制度故にアウトサイダーとならねばならない人々も存在する(過疎化・高齢化の進む村は、かつて社会の基盤であったのに、いまでは厄介者、アウトサイダー扱いされている)。そこに「人間味」が持ち込まれるとき、制度は息を吹き返す。ただ、アウトサイダーが制度と同じ思考・決断をしたとき、自らもその「人間味」を許容することはできなくなった。映画は、その悲劇を描いている。
医療制度をはじめとする日本の社会の問題について、静かに深く掘り下げる映画であるが、それだけでなく、「人間味」と制度の葛藤というさらに深い問題についても考えさせる佳作である。

映画については、公式ホームページを参照。

2009年7月21日火曜日

蓄積、あるいは、間テクスト性

キリスト教には「説教」という営みがある。アメリカでは牧師が"preacher"(「説教する人」)と呼ばれるくらい、牧師の役割において「説教」に対するの比重は大きい(と期待されている)。

しかし、「説教」という訳語がよくないと思う。「教えを説く」、つまり、聖書に記されていることの「正しい解釈」を「説き教える」ものと思われていて、説教者は「教師」となる。
また、この言葉は、いわゆる「お説教」、「訓戒すること。また、堅苦しい教訓的な話」(『広辞苑』)を連想させてしまう。「伝道地」であり、キリスト教徒が絶対的マイノリティーであり続けている日本においては、「説教」とは、キリスト教の教えを(多分に倫理的に)解説し、改宗へと導くものというイメージが定着してしまっている。
そして、最大の問題は、これらのイメージが、キリスト教外部や聞く側からのものだけでなく、「説教する」側の自己認識にもなっている点にある。

あるテクストを基に何か話をするということ自体は、そんなに珍しいことではない。最近読んだ本や最近観た映画の感想なども、同種の営みだと言えるだろう。そこには、新たなテクストとの出会いがあり、それまでに蓄積されてきたテクストとの対話がある。新たなテクストが意味を見出されるだけでなく、古いテクストに対しても新しい意義付けが行われる。
この文脈に「説教」という営みを置いてみると、聖書のテクストと説教者というテクストの間テクスト的出会いがあり、新たなテクストが生み出され、そして、それが聴衆というテクストと出会うという、「連鎖的な間テクスト的読み」が行われていることに気付く。聖書テクストを読む説教者の「独自性」(ユニークな存在であること)に着目すれば、その読みが「絶対」でも「正解」でもないことになる。そうなると、説教で語られるべきは、「連鎖的な間テクスト的読み」の中へと聴衆を招くような内容であり、そして、その「連鎖」がさらに広がっていく(例えば、その「読み」に基づいて、社会や周囲の事柄を「読む」)ような契機を提示することだろう。

「説教」は、極めて間テクスト的な作業であると言えるだろう。そうならば、聖書テクストと対話する他のテクストがどのようなものであるかは、その作業の質を決めることになる。伝統的キリスト教のディスクールだけを相手とするなら、その読みは、新たなものを生み出さないだろう。読みが開かれていくためには、間テクスト的読みの相手となるテクストが蓄積されていかなければならないのだ。説教を語る者と聴く者の双方において。

2009年7月17日金曜日

驚きの発見

「ナザレの村里」(『讃美歌21』287)の曲、ST. PETERSBURGのボルトニアンスキー自身によるハーモニーを探していた。すると、次のような説明のページを見つけた。

http://www.kkovalev.ru/Bortniansky-eng.htm

正教の典礼のために書かれたのではなく、"Kol Slaven"という詩に付けられた曲らしい。
ドイツでは、テルシュティーゲンの詞、 "Ich bete an die Macht der Liebe"と組み合わされて歌われる。これは知っていたし、それを演奏したCDも持っている。

ところがそれだけではない。この曲は、ドイツ陸軍の"Großer Zapfenstreich"という儀式の最後に「祈り」と題されて演奏されるらしい。"Zapfenstreich"は「帰営ラッパ」という意味で、指揮官の退官の時などに行われるということだ。

YouTubeを探してみたら、その模様があった。

http://www.youtube.com/watch?v=CVZGHbctH34

この儀式については、『エロイカより愛を込めて』(青池保子)というマンガに描かれていて(34巻60ページ。ここでは、ドイツ連邦軍創立50周年記念式典として行われたものが取り上げられていた)、登場人物の一人がこの「祈り」に感激する場面があった(62ページ)。その中で、「曲目は『愛の力に祈る』」と、ドイツで歌われる詞もきちんと言われているのに、その「祈り」がST. PETERSBURGだということに気づかずにいた。

それにしても、このように神秘主義的な信仰の歌が、どのようにして、軍隊の儀式に取り込まれたのか。
ロシアの愛国的な歌が、どのようにして、ドイツでよく知られる歌になったのか。
そして、そのような歌が、どのようにして、英語圏で賛美歌となったのか。
発見の後には、新たな疑問が起きてくる。

2009年7月16日木曜日

ふさわしい/ふさわしくない

チェチリア運動(19世紀にドイツで始まった、典礼と音楽の改革運動)の時代、ハイドンやモーツアルトの教会音楽は、「世俗的過ぎる」と考えられていた。ハイドンやモーツアルトを批判する人たちはグレゴリオ聖歌やパレストリーナを「理想」としていたのだから、当然といえば当然の結論だろう。音楽から察するに、彼らにとって信仰や典礼は、「神秘的」で「厳粛」なものととらえられていたはずだ。これに対して、ハイドンやモーツアルトの音楽は、「開けっぴろげ」で「楽しい」。

「美しいもの」はキリスト教の本質ではないという議論は、かつてもあったし、今もなお、かなりの力を持っている。「質素」であり、「本質的」(つまり「形而上学的」ということか)であることが、キリスト教にとって決定的に重要だという議論である。これはプロテスタントvsカトリックの問題に置き換えられることもあるが、決してそうではあるまい。「美」を巡る評価の問題なのだ。

礼拝においてどのような「付属物」(礼拝堂、音楽、楽器など)が「ふさわしい」ものなのか。審美的な判断は、もちろん、重要である。しかしそれでは、単なる「好き嫌い」という感覚だけが働いてしまうこともある。単純に審美的でなく、神学的に考えられる場合もあるだろう。その場合でも、前提となるある認識が存在しているので、その前提の「是非」を問わない限り、「好き嫌い」と変わらないレベルの問題となってしまう危険性があるし、前提についての省察が行われることはあまりない。従って、そのことについて議論することさえできないというのが、しばしば遭遇する状況である。「ふさわしい/ふさわしくない」というもっともらしい議論も、開き直ってしまえば、みんな「好き嫌い」に基づいているのだ。

今日、カトリック教会の典礼において、モーツァルトの教会音楽は一定の復権を果たした。モーツァルト自身は嘆いていたことであるが、啓蒙主義的な大司教によって典礼の時間が、従って、音楽の演奏にかけられる時間も、制限され、モーツァルトは「短く」教会音楽を作曲しなければならなかった。その結果、彼の作品は、現代の典礼にとっても「適切な」長さとなった。
その分、ハイドンは分が悪い。初期のものを除いて、気前のよい領主が長いミサ曲を許容したから、ハイドンは生前、思う存分、手の込んだミサ曲を作曲することができた。その結果、今日ではかえって、典礼の中で演奏しにくくなってしまっている。何と皮肉なことだろうか。

ハイドン没後200年の今年、改めてその教会音楽を聞いてみると、そこには、大らかで朗らかな信念が響いている。「人生とは素晴らしいものだ」。ハイドンの作品を聞くとその「絶対的肯定」の言葉が聞こえてくるし、それこそ、今日において、キリスト教が語り続けなければならないメッセージであるように思えるのだ。

2009年7月11日土曜日

プラ・ド・フリュイ


少しだけ、待ち合わせまで時間があって、待ち合わせ場所に近いショッピングモールを歩いた。タルト系のケーキを売っていて、カフェもしているお店を見つけ、つい、ふらふらと入ってしまった。

「店内限定」と書かれた、「プラ・ド・フリュイ」を、紅茶と一緒にいただく。季節の果物をマスカルポーネ・チーズであえた絶品。
半分ほど食べて、「写真を撮っておこう」と思い至った。いつもそうだ。食べ始めるときには、食べ物のことしか念頭にない。
なので、「ざんない」写真になってしまった。

半分ほど食べて、まだこんなにある。ということは……。それは考えないでおこう。

2009年7月3日金曜日

主の言葉を聞くことのできぬ餓えと渇き

ある授業でのこと、「アモス書に基づく説教を聴いたことがあるか」との問いに、「ある」と応えたのは、20人近くいるクラスのうちわずか3人ほど。表題の言葉を思った(アモス書8:11)。

もちろん、この事態は、説教を聴く側の責任ではない。説教する側、説教のために聖書を読む側の責任である。ヘブライ語聖書は難しい、分かりにくい、だから説教では取り上げない。取り上げるとしても、よく知られた箇所だけにする。こうすると、聴く側は、ヘブライ語聖書は重要でないものと受け止め、読まなくなる。読まなくなるとますます、説教で取り上げることが難しくなる。ヘブライ語聖書を読まない悪循環が働いている。これでは、実質的にマルキオンと同じ立場である(マルキオンは、2世紀、ヘブライ語聖書をキリスト教の「聖書」から取り除くことを主張した)

また、ヘブライ語聖書を取り上げないことは、キリスト教会の現状を端的に表しているように思う。ヘブライ語聖書には、共同体の倫理の他、正義や平和といった問題が直接に取り上げられている(その扱い方の問題については、「ヘブライ語聖書日課を『読む』」で取り上げている)。しかし、日本の社会やその中に生きているキリスト教会は今、このような問題より、「個人の魂の救い」や「癒し」に大きな関心を寄せている。そのこと自体は大切なメッセージであるし、キリスト教は今日の社会に向けて、「心の平安」を伝えなければならないと思う。しかし、それだけでいいのか。

「私」は一人で生きている訳でないし、「私」が今日生きていることは世界とつながっている。「私」が本当に幸せになるためには、共同体や社会、世界の安全・繁栄と無関係ではない(エレミヤ29:7参照)。その間の関連を見つけられないでいる、実感できないでいることが、実は、この社会に生きる私たちが存在を確認できないでいるという問題の根幹にあるのではないか。そのように感じている。

このような状況にあるのに、神の「私」個人への「愛」をことさらに強調することは、私たちの存在そのものを矮小化し、その本質を見失わせかねない。このような方法で「癒し」を語ることは、本当に「救い」を語ることなのか。このような問いが突拍子もないものに聞こえることが、私たちの社会、そして、その社会に生きているキリスト教会の問題を表しているように思えてならない。

2009年6月29日月曜日

「わたしたちの……」

 「主の祈り」に関する記述のうち、ルカによる福音書版は、次のような弟子の言葉で始まる。

  主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。(11:1)

 バプテスマのヨハネは弟子たちに、(おそらく)独自の祈りを教えていた。これは、独自の信仰、独自の神観を有していたことを表している。「自分たちの祈り」を持つということは、その基となったグループからの独立を意味する。ヨハネのグループは、その基となったグループ(研究の成果を受け入れれば、エッセネ派)からの独立を、「祈り」によって宣言したのだ。

 イエスの弟子が、そのヨハネ・グループの「ように」、自分たち独自の祈りを持つことを主張した。彼らの基となったグループは(研究の成果を受け入れれば)バプテスマのヨハネ・グループであったとされるが、独自のいのりは、イエス・グループの独立宣言となる。イエスの弟子たちは、自分たちの独自性を主張しようとしたのだ。

 そうなると、祈りの中の「わたしたち」が問題となる。この代名詞は、様々な意味を持ちうる。「わたしたち」は、「彼ら」ではない、つまり、独自の祈りを持つ集団の内部を表しうる。マタイ版の「主の祈り」のように「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるとき、「彼らの」神ではなく、「わたしたちの」、「わたしたちだけの」神が意識されることになる。

 プロテスタント教会において「主の祈り」が今もなお、1880年訳で唱えられることが多いこととも、これは関係している。「呪文」のように、古い言葉で唱えられる祈りは、それを知らない「彼ら」を排除するものとして機能させることができる。そう言えば、古代において、「主の祈り」も「信条」も、信者以外のものが退出した後、信者だけが残っている場面で唱えられたのだった。
 「主の祈り」はしばしば、「世界をつなぐ祈り」と言われるが、実際のところ、分断と排除のために用いられている現実が存在している。

2009年6月23日火曜日

からだとこころ

 自宅最寄り駅の改札に行くには、53段の階段を上らなければならない。もちろん、エスカレーターが着いている。しかし、大きな荷物でも持っていない限り、エスカレーターには乗らないようにしている。健康を意識してというのもあるが、最近、別の効能にも気づいたからだ。
 朝起きる。深夜まで起きていたのがたたって、どうも寝覚めの悪いときもある。それでも、授業は休めないし、校務もある。
 朝食を取ると、少し、力が出て来る。「目が覚めてくる」というのが正しいのかもしれない。そして、駅まで、わずか5分でも歩いているうちに、さらに、体が起きてくる。そして、件の53段を、一段飛ばしで上がる。
 階段の下に着いたときにはまだまだ起きていなかった体が、改札フロアーに着く頃には、けっこうしゃっきりしている。単純だけれど、体を動かせば「こころ」も起きてくるのだと気づいた。毎朝の、何気ない行動だけれど、駅の階段を昇ることには、こんな効能があるのだ。

 こころ(頭も含めて)と体は、こんなにストレートに結びついているらしい。

2009年6月19日金曜日

政治と宗教

ダニエル書5章。ネブカドネツァル(4章までの重要な登場人物)の跡を継いだベルシャツァルの宴会中に、「人間の指」が現れ、不思議な文字を書く。

そもそもこの宴会は、何の会だったのか。機会は何にせよ、エステル記1章を参照すると、政治的安定を図る意図は含まれているように思われる。そして、招かれた人々が「千人」であったことからすると、選抜があった。岡田の言う「包含と排除」の構造を働かせて、ベルシャツァルは政治的な示威行動を行っている。
そこに、先王の最高顧問ダニエルや先王の王妃が出席していなかったことには、さらに別の意図が感じられる。有名な父の跡を継いだ息子は、父の影響から脱していることを、宴会に招くという行動を通して、明らかにしたかったのだ(列王記上16章参照)。

そこにエルサレム神殿から略奪してきた祭具が持ち出される。エルサレムを陥落させ、そこにあった神殿から祭具を奪ってきたのは、他ならぬネブカドネツァルである。ここにも父に対する挑戦が見て取れるが、それを使って、バビロニアの神々をたたえて乾杯を行おうとすることは、エルサレムで礼拝されていた神を自分の支配の構造に組み込もうとする意図がある。
ネブカドネツァルは、2〜4章のエピソードを通じて、ダニエルとその仲間の信じる神を崇めるようになっていた。ベルシャツァルは、その神すらも自分の作り上げる権力構造の一部に——もちろん下位にである——組み入れようとしていた。

ネブカドネツァルを取り込み、同時に自分の地位と影響力を高めてきたダニエルにとって、ベルシャツァルの政策が面白かろうはずはない。不思議な現象の解明を求められて、彼は公然とネブカドネツァルを称賛し、ベルシャツァルを非難する。そして、その言葉どおり、ベルシャツァルは、この出来事のあったまさにその夜殺害されてしまうのだ。事件の陰にダニエルがいたのではないかと疑わせるに充分である。

政治と宗教の言葉は、「政教分離」が建前の現代においても結びついている。政治は、時に、「文化」や「伝統」に対する「尊敬」という、一見反対しがたい表現で語られる。そして、それに対抗するための宗教的な言述も、政治的闘争の意図を隠し持ったものである場合がある。ダニエル書5章は、このようなことばのありように気付かせてくれる。

責任ある/責任を取る

常に責任ある行動をすること。それは、ひとりの人間として求められていることである。しかも、指導的な立場にある人間は、あらゆる場面で「責任ある行動」を求められる。
しかし、どうすれば「責任ある行動」だと言えるのか。これはそんなに簡単なことではない。
事、自身に関する判断なので、容易にぶれ得る。外から見た場合も、人によって判断は異なるので、「説明責任」を果たすことも簡単ではない。甘くしては行けないが、厳しくしすぎると、漱石ではないが、窮屈になって「生きにくい」。

翻って考えさせられるのは、「誰が何をすれば『責任を取る』ことになるのか」ということである。学生が「不祥事」を起こしたとき、学校は「謝罪」しなければならないのか。メンバーの行動故に、所属するグループは「責任を取」らなければならないのか。「自己責任」を強く言うのに、個人がその責を問われるだけでは納得しないという矛盾が、この社会には存在しているように思う。そして、「責任」を負わされるグループや学校の者たちは、社会の「圧力」に屈さざるを得なくさせられている。
恐ろしいのは、その結果、本当の「責任」の所在がうやむやにされることではないか。

「責任」とは何なのか。使えば「問答無用」の空気を作り出せる言葉だけに、よく考え、慎重に使いたい。

2009年6月13日土曜日

裏道

学部本館から事務室のある建物には、2つの道が付いている。そのうちの1つの道は、3つの建物の「裏」の間を通る。
そこは、多くの時間、日が射さず、人通りも少ない。でも、その分、静かで落ち着いていて、何となく「隠れ場所」のよう。私の好きな道の1つである。
今日はよい天気で道の花も木も美しかったので、写真を撮ってみた。

2009年6月7日日曜日

食事の政治性

岡田温司『キリストの身体−−血と肉と愛の傷(中公新書)』に次のような表現を見つけた。

「聖体」とその秘蹟は、それにあずかることのできる者とできない者とを区別するという、包含と排除の構造において、キリスト教の社会的・文化的な統一体(という幻想)をつくりだす政治的な装置として機能するのである。(94ページ)

「化体説」の成立と受容を巡る歴史的議論、さらには、それが「聖体」を描く美術においてどのように表現されているかを述べた行にあるのだが、食事というものの持つ政治性を的確に言い当てている。その政治性が、「聖なる宴」、聖餐においてこそ、最も強く発揮されるということを、私たちは目の当たりにしている。

「包含」だけの食事はあり得ないにしても、極力「排除」の要素を持たない祝いの食事はあり得るだろうし、追い求めなければならないと思う。ことに、「排除」の構造を強く押しだそうとするこの社会においては、自覚的に「包含」の食事を祝う、社会的な、そして、宗教的な意義があると思う。

翻って、私の関わる食事の「包含」性と「排除」性について、省みずにはいられない。ことに、聖餐という食事において、神学的伝統は「排除」性を容認しうるのか。どのように私たちは、私たちの祝う食事を意味づけるのか。聖なる食卓においても、また、プライベートな食卓においても、この問いは、いつも響いている。

2009年6月6日土曜日

ゴルトベルクのヴァリエーション

J・S・バッハ作曲《ゴルトベルク変奏曲》BWV988は大好きな作品。ハープシコード(チェンバロ)、ピアノの演奏の他、ギター、弦楽合奏、金管合奏編曲のCDを持っている。

最近は、カナディアン・ブラスの演奏するCDをよくかける。もちろん、ある時点で世界最高クラスの金管アンサンブルだったことは知っている。他の演奏でも、素晴らしいと思った。しかし、これほどまでに美しい音を鳴らすことができるとは。フレーズは確かで、音程もリズムも正確。しかし、それだけでない。
あたたかく、柔らかな発音で、美しくハーモニーを響かせる。そして、より対位法的な扱いのされている部分に来ると、チューバですら、旋律的な演奏をやってのける。

アリア(サラバンドか?)の典雅なリズム感は、あたたかなハーモニーに包まれる。続く第1変奏は、打って変わって、歯切れのよいリズム。第16変奏の序曲は、付点のリズムにのって、全声部が新しい始まりを告げる。コードリベット(第30変奏)は、2つのメロディーが絡み合いながら、確かな足取りで進んで行く。

編曲も金管をよく知ったものなのだろうが、演奏者たちも、この曲の姿を知り尽くしている。

2009年6月5日金曜日

よく歌う人は倍祈っている

賛美歌「ナザレの村里」(『讃美歌21』287)の基になった合唱曲を聴く。ボルトニャンスキー作曲で、テルシュティーゲンの詞が配されている。
(NMLで聴くことができる。ここから
男声合唱(無伴奏)で、礼拝で歌われるときよりは随分たっぷりとしたテンポ。ブレスも揃い、表現も各パートの間にズレがない。ハーモニーはしっかりと響き、男声合唱特有の「厚み」が心地よい。

このような音楽は「耳で聞く」というより、「胸に響く」と言うべきか。人声のみで演奏されるとき、音楽はより純粋に、崇高に響き、そのまま聴き手の「からだ」を揺すぶる。「歌は祈り」と言われるが、それは、精神のみでなく、「からだ」をも含む全人的な祈りとなる。だから、アウグスティヌスは、表題の言葉を語ったのだろう。

2009年5月30日土曜日

「評価する」ということ

私のような仕事をしていると、「評価する」ということがついて回る。
学生の成績、同僚の業績、自分たちの学校の「目標達成度」……。

繰り返し言われることは、「客観的な判断基準に基づいた、公明正大で透明な評価」。
もちろん、この目標に疑義があるわけではない。
しかし、評価する者は一個の人間であり、独自の価値観や審美眼を持っている。評価される側も、固有の表現様式や価値観を持っている。この2つの間に「性に合う/合わない」ということは、もちろん、ある。
「公明正大で透明な評価」ということは、きちんとした説明のできる行動を取らなければならないということなのだろう。しかし、その「説明」も、受け止めようによっては、「説明になっていない」ということになる質のものなのだ。

だからこそ、評価する側は、「客観的」であろうと努力しなければならないし、「公明正大で透明」を目指さなければならない。
それにしても、神ならぬこの身が、どれほどその「目標」に到達できるのか。この点の「評価」は、自己採点でも、かなり辛いものにならざるを得ない気がする。

2009年5月24日日曜日

興味深いテーマの面白くない本

興味あるテーマの新書を買ってきて読んでみた。
1つは、マンガという表現形式と哲学の関係を考えるもの。もう1つは、「聖地」について考察するもの。どちらも、そのうち、自分でも何かを書きたいと思っているテーマ。

ところが、どちらも面白くない。理由は、
  1. 議論が雑駁 自分で立てたテーゼを、さして検証もせず、「論証された」とする。
  2. 読者を見下したような論調 あたかも、「自分だけが知っている・気づいている」と言わんばかりの書き方。
にあるように思えて仕方ない。
読者は、一緒にわくわくしたり、考えたりしたいのに、これだと、何だか、偉い先生の「ご講義」を拝聴しているよう。